(4)弁柄で絵付された赤九谷

 

江戸末期、日本人が好んだ「赤色」の絵の具を多用した細描画の赤九谷が造られました。その代表的なものは、宮本屋窯の飯田屋八郎右衛門が考え出した「八郎手」と、斉田伊三郎が創めた佐野赤絵でした。それぞれは門人などによって受け継がれ、明治時代に入ると、九谷焼といえば、赤九谷といわれたほど、明治九谷の主要な様式となりました。その後、この様式の九谷焼は“九谷赤絵”と呼称され、高く評価されました。

この赤絵に用いられた絵の具は、江戸末期、備中高梁で開発された「吹屋弁柄」から造られました。それが磁器の絵の具として最初に用いられたのは奥田潁川が制作した呉須赤絵風の京焼であったと考えられ、潁川の弟子 青木木米を通じて加賀に伝わり、その後、斉田伊三郎が京で潁川の弟子であった水越輿三兵衛(よそべい)から陶芸を学ぶ中、絵の具として「吹屋弁柄」の用い方を修得して佐野村に戻り佐野窯を開き、その絵の具の特性を利用した佐野赤絵を制作しました。

その後、「吹屋弁柄」の特性を生かして赤絵細描画が加賀の各地に拡がりました。その弁柄で描かれた線描は、細かくても濃く盛り上がった線が焼かれた後も、指先で感じられるほど、立体感のある陶画が絵付できました。また、この弁柄の発色の仕方によっては“黄赤色”から“鮮やかな「赤色」”そして“赤褐色”まで微妙な色合いやグラデーションも表現でき、縁起物の皿や鉢の絵付に用いられ、この赤九谷は瞬く間に加賀中に広まりました。

参照;佐野赤絵と吹屋弁柄