(2)古九谷にみる花の図案・文様

桃山時代から江戸時代の美術工芸品の多くには、競うように、花や鳥たちが生き生きと描写されていて、そこからは、花鳥に見出した日本人の好みや志向がうかがい知ることができます。同じように、古九谷においても、花がもっている美しさ、生き生きとした姿を見つけることができます。牡丹(富貴花)、梅花、菊花などたくさんの花が描かれ、桜花が画題にさえなっています。

富貴花 牡丹
墨刷木版画(左)は八種画譜「草木花詩譜」の巻頭を飾っている牡丹の挿図です。牡丹は、もともと中国が原産地であり、富貴花、花中の王などと呼ばれましたが、近世初期に明・清から日本に舶載された画譜にもとり入れられ、画材のもとになりました。挿図には、大輪の牡丹をほぼ中央に配し、右にがっしりとした太湖石と、一匹の蜂が描かれています。

例えば、富貴図(右)は中国画をならっていた若き田能村竹田の作品で、蜂が省かれているものの、大輪の牡丹と大きな太湖石が中心に描かれているのを見ると、富貴花が画材のもとになっていたことがわかります。

古九谷のなかにも牡丹を画題にした作品がいくつかありますが、東京国立博物館所蔵の「色絵牡丹蝶文大皿」のように大輪の牡丹を紫で深く彩りしている作品もあります。桃山時代以来の金碧障壁画に描かれたような極彩色の牡丹図と異なり、濃淡のある紫で描き、大輪の牡丹にとまろうとする一匹の蝶が五彩の黄でありながら、ここでは鮮やかさを見せています。中国的な図案から日本的なものに換えられているのです。
古九谷の中でも、縁文様がなく、これだけの大皿に、花中の王に相応しい、動じない姿(花言葉にある)として描かれている作品は少なく、平鉢の平面に配された三つの牡丹が堂々と見えてきます。

梅 花
日本で初めて梅花を絵画にしたのは、「源氏物語絵巻」といわれ、その絵巻には鶯が枝にとまっている梅花の絵が描かれています。源氏物語りの以前にも、すでに梅花が文様として用いられはじめられており、菅原道真が梅花を好んだことに因み、天満宮の神紋として用いられるようになったといわれます。そして、加賀藩や大聖寺藩は、道真公(加賀権守の官位に就いたこともあります)を尊んだことから、梅紋を家紋としたとのです。

江戸時代は、まさに梅花の流行の時代といってよく、紅梅がもてはやされました。武士ばかりではなく、庶民にも園芸熱が広まり、梅木が庭木として、また神社の鑑賞用としてもてはやされ、自然と美術工芸品に広く取り上げられる対象となりました。

中国では「梅」「蘭」「竹」「菊」 の草木が「四君子」と呼ばれ、古来より人々に愛されています。唐代から、多くが梅花とか桃李が詩で詠じられました。さらに、宋代には、竹を水墨画の主題として描きはじめてからあと、梅・蘭・菊・松へ広がりを見せていき、その中でも、松・竹・梅の三者が特に頻繁に取り上げられるようになりました。そして、元・明代には、松竹梅が陶磁器の主題としても好まれるようになったといいます。

ですから、古九谷でも、梅花を中心に描かれたもの、慶事の象徴としての松竹梅を描いたものなど数多くあり、裏面に染付の槍梅文に赤い梅花を描いた作品もある。

菊 花

菊花は、日本には、中国での故事に因んで、奈良時代末に遣唐使によって薬草として伝わり、その後、鑑賞用として愛されるようになりました。そして、平安時代末期、後鳥羽天皇・上皇が菊花を殊のほか愛され、それを文様として車・調度、さらに衣装などに用いたことが代々続いたことから、菊花が皇室の御紋として認識されるようになりました。

桃山から江戸の初期にかけて、菊花は、自然のものとして、それ自体の美しさで愛されましたが、一方で、寺院、武将たちの大規模な殿舎などの豪壮な障壁画にも取り入れられました。そして、工芸の分野でも大いに取り上げられ、とりわけ、尾形光琳は、菊花を「白綾地秋草模様小袖」に意匠化し、「秋草図屏風」にも描いた。こうして、光琳の描く菊を図案化した「光琳菊」も広まっていったといいます。

従って、菊花は、古九谷においても、平鉢から小皿までに広く及び、また壺などにも多く取り入られた。そして、裏面に菊唐草文としても多く描かれたのである。

桜 花

日本人は、古くから、ものごとを諸行無常といった感覚にたとえてきましたので、ぱっと咲き、さっと散る、そんな桜花の姿にもはかない人生を投影してきたのです。ですから、桜花を好み、美術工芸の世界でも、長谷川等伯、琳派の画家らによって、梅花と同じくらい画材に取り上げられています。
やきものの世界では、桜花は、江戸中期の鍋島焼の中に、あでやかな春の花として華麗に絵付けされた作品がありますが、他の花に比べて画材としては珍しいといえます。

古九谷では桜花を画題とする「青手 桜花散文平鉢」(石川県立美術館蔵)があります。それは、鍋島焼の桜花と異なり、「花は桜木、人は武士」(花では桜が第一であるように、人では潔い武士が第一である)といわれるとおり、まさに大聖寺藩の藩士でもあった絵師のひとりが、武士道の象徴を表すかのように仕上げたとも考えられています。

黒の呉須で描かれた菊小紋で埋めつくした緑の地、そこに散り落ちて行く桜花と葉を群青で絵付をしているだけですが、古九谷愛好者だけでなく、多くの美術品の鑑賞者にも好まれている作品といわれます。

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