九谷焼の赤絵は独特の細密描画の様式をとっています。絵付には職人の高い技術が要求され、にじみにくい赤絵の具の特性を活かして、文様を器全体に細描と呼ばれる細かい描き込みが施され、その周りを小紋などで埋め尽くすといった絵柄と色の華やかな取り合わせを見せ、その採苗は驚嘆に値します。(画像は「赤絵琴棋書画図瓢形大徳利」石川県立美術館所蔵)
そして、背景を主に赤で塗り埋めた器体に金彩で絵付した様式は赤絵のなかでも特に金襴手と呼ばれています。赤絵の具で上絵付した後,広くは金泥も含む金箔などの金色を焼き付けて文様を表したもので,赤と金との配色が織物の金襴の趣に似ているところから日本でこう呼ばれてきました。
赤絵・金襴手は、中国宋代に始まり、明・清代に極めて発達しましたが,日本では江戸時代中期に、愛好されていた嘉靖金襴手を取り入れて、伊万里金襴手がつくりあげられました。そして、江戸後期、九谷焼でも、吉田屋窯のような寒色系中心の彩色から赤を中心とした細描で精緻な赤絵に変化していきました。先駆者として、京焼の名工 青木木米の指導により金沢の春日山窯で制作されたことに始まり、その後、金沢の民山窯で蘇り、さらに宮本屋窯で、飯田屋八郎右衛門を赤絵細描のルーツとする赤絵の様式(八郎手)が確立されました。
加えて、慶応年間、金襴手が永楽和全によって九谷焼に持ち込まれました。和全は特に金襴手が得意で,金泥を用いながら、金箔を使った中国金襴手に劣らない豪華さを表現し,京の明るく都会的な作風を九谷焼に取り入れられました。明治に入ってからは竹内吟秋・浅井一毫らによって八郎手と金襴手を融合させられました。こうした様式は金沢と能美郡にも広まり、九谷庄三により大成された彩色金襴の手法は「ジャパンクタニ」で大いに人気となり、九谷焼の様式の大きな支柱の一つとして完成し、今日九谷焼の中に深く根付いています。