九谷焼の歴史 九谷古窯から明治九谷の窯元へ

1.江戸時代前期の窯

300年以上前に、日本の美術工芸品の中でも高い評価を受けている色絵磁器の古九谷が2基の古窯と絵付窯で制作されました。

九谷古窯 吸坂窯

2.江戸時代後期の窯元と絵付工房

九谷古窯が閉ざされてから100年以上経った加賀の地に、当時の磁器の最新技術をもとに、加賀藩の殖産興業の意図から、主なものだけでも再興九谷の諸窯が続々と興されました。

春日山窯 若杉窯 小野窯
民山窯 吉田屋窯 宮本屋窯
佐野窯 庄三工房 蓮代寺窯
松山窯 九谷本窯(永楽窯) ほかの諸窯

3.明治時代の主な窯元

再興九谷の諸窯では、素地を焼く本窯と絵付をする絵付窯(錦窯ともいう)が築かれ、それぞれの職人がいたのとは違い、明治時代では、江戸末期ころから起こっていた現象ですが、江沼地方の一部の窯元を除き、素地作りと絵付が分業されるようになりました。それは、輸出のために良質で大量の素地を効率よく生産供給するためであり、窯元は陶石の産地(花坂や鍋谷)近くで素地を製造して、その素地を能美や金沢の絵付業者(陶画工)た陶器商人に供給しました。

1.能美地方の製陶業と窯元

能美地方では、本多貞吉によって花坂(小松市)で、藪六左衛門(小野窯の創業者)によって鍋谷(現在の能美市)で、そして九谷庄三によって五国寺松谷(小松市)で、それぞれ陶石が発見されたことから、再興九谷の窯元ではこれを素地の原料として使われました。(詳細;九谷焼の歴史 明治九谷の窯元 能美地方の製陶業・窯元

2.金沢地方の窯元と支援施設

金沢地方では、江戸の末期に春日山窯、民山窯で素地が焼かれましたが,その素地は硬く締まっていたものの、能美地方の素地のような品質ではなく、民山窯の後も、藩窯が築かれたこともありましたが、明治初期にあった窯元は陶窯でした。そこで、輸出九谷の素地を製造する目的で、金沢市・石川県の支援によって、九谷焼などの技術開発や品質向上のために設立された石川県勧業試験場で本窯が築かれ、素地の開発が進み、その窯が活かされて品質の良い素地が造られるようになりました。(詳細;九谷焼の歴史 明治九谷の窯元 金沢の窯元・ほか

3.江沼地方の窯元

江沼地方では、窯元が素地作りから絵付、販売まで一貫しておこなう、再興九谷以来の伝統的な生産方式が続きました。当初、隣接する能美地方の窯元に倣って、素地作りを専業とする窯元が旺盛な需要のあった素地を地元や金沢の陶画工に供給していたのが、自らも絵付を行う窯元となり、あるいは陶画工が素地作りのために本窯を持つようになった窯元もありました。中には、現在も操業を続ける窯元もあります。(詳細;九谷焼の歴史 明治九谷の窯元 江沼地方の窯元