明暦元年~宝永7年頃(1655~1710頃)
歴史的意義
加賀市の九谷で発掘された窯跡は、江戸時代に磁器を焼いた窯であると認定され、国の指定史跡となり、九谷古窯と呼ばれています。それというのも、日本の美術工芸品の中でも特に高い評価を受けている色絵磁器の古九谷が300年以上前にこの窯で焼かれていたからです。古九谷の意匠は、優品とされる鍋島、柿右衛門などと異なる、落ち着きのある優美さの中にも溢れる生命力を見る者に感じさせてくれます。
加賀藩では、歴代藩主が美術工芸に強い関心をもち、加賀独自の文化を醸成することを藩政の中に取り入れました。ことのほか、三代藩主 前田利常(1593-1658)は、中国陶磁器への憧憬から、寛永14年(1637)、肥前平戸にそして長崎に設けた藩の出張所を通じ、茶道具の青磁・古染付・祥瑞などのほか、呉須赤絵や南京赤絵などの色絵陶磁器を集めることに精を出しました。この収集熱が高じて、加賀の地 大聖寺藩の九谷村で磁器を制作するよう促したとされます。
こうして、江戸前期、加賀藩の文化圏の中で古九谷独特の豪放かつ華麗な絵付のなされた磁器 古九谷が九谷古窯から誕生しました。
しかし、この窯は開窯から数十年後で廃されましたが、この窯で創り出された古九谷が伝世されました。江戸後期に加賀国産の磁器が再興されると、さらに、伝世の古九谷そのものを再現しようとする機運が盛り上がりました。それが記録として残っているものが、文化5年(1808)、加賀藩の金沢町年寄 亀田純蔵(号 鶴山)が加賀国産の磁器を制作することを提案した「唐津金府起本」と題する具申書です。その中には「先年陶器を作っていた大聖寺九谷の土を取り寄せ、」「少し試しに焼いてみると問題なく出来た」と記述されていています。そして、京より青木木米を金沢に招いて春日山に磁器の窯を開くように藩主に建議がなされ、古九谷に始まった磁器の再興が実現しました。
その中でも、大聖寺の豪商 吉田屋伝右衛門が青手古九谷を再現することに情熱を燃やし、文政7年(1824)、見事に再現させました。その後、各窯においても再現され、完成度を上げていき、明治時代に徳田八十吉による「倣古九谷」に至り、古九谷の伝統美は完成され、現代九谷にも生き続けています。
窯の盛衰
九谷古窯は、明暦元年(1655)、江沼郡九谷村(現在の石川県加賀市山中温泉九谷町)で開かれた窯です。
利常は、寛永16年(1639)、本藩より分藩させた大聖寺藩に近い小松の地に隠居して、本藩と大聖寺藩の藩政に深く関与しながら、文化事業とも殖産興業ともいえる磁器の生産を大聖寺藩に促したと考えられます。開窯を具体化したのは大聖寺藩初代藩主 前田利治で、それを2代藩主 利明が推進しました。後藤才次郎が藩主の命を受けて肥前に製陶技術の修得のために派遣され、帰藩した後、明暦元年、陶石が見つかった九谷村に田村権左右衛門を指導して窯を築いたといわれます。
当時を記録する公文書が残されていなく、不明なことがありますが、江戸中期の文献には「九谷やき」「大正持焼茶碗」「大聖寺焼染附茶碗」などの名が見られ、焼かれた地域か藩の名が付せられたやきものがあったことが記せられています。
古九谷を知る上で重要な文献の一つ『茇憩紀聞』(加賀藩群奉行 塚谷沢右衛門が亨和3年(1803)に編集した)には、陶器場の所在地、ものはら・窯道具・朱石や陶石の状況、そして開窯の時期を示す「明暦元年六月廿六日」銘の花瓶の存在、後藤才次郎と田村権左右衛門との仕事上の役割などが具体的に記述されています。現在、これをもって九谷古窯の開窯年代が明暦元年(1655)と考えられています。
しかしながら、九谷古窯は、ものはらの陶磁片から推定して、色絵磁器の素地を焼成する能力が上がらず、次第に陶器しか焼成することのできない窯になり、元禄年間の中頃には本窯が閉じられたと考えられています。その後、肥前から素地を輸入し絵付をする制作の方式に転換したと見られます。さらに、事業推進の主人公 前田利明や後藤才次郎の死亡、藩財政の窮迫、藩内の飢饉等、藩内の政治・経済情勢などが影響し、宝永7年頃(1710頃)古九谷そのもの制作が終わったと考えられます。
なお、昭和45年(1970)よりの5次にわたる調査で、古九谷窯跡2基、吉田屋窯跡1基の計3基が確認され、昭和54年に国の指定史跡に指定されました。窯近くのものはらからは約2万点にのぼる陶磁片が発掘され、そのうち、色絵付を前提とする、流水文・山水文・花木文・草花文などの文様が描かれた染付が約500点見つかり、制作年代が一時期に集中していたと考えられます。その他は白磁・青白磁・青磁・鉄釉・灰釉。瑠璃釉などを施したものから無釉粗胎まで様々です。そして、平成19年よりの発掘調査で、古窯に隣接するところで絵付窯跡・朱石粉砕片の堆積層が発掘され、九谷古窯で色絵付も行われたことが裏付けられました。
特に、陶画工については、今に伝世される古九谷に見られるように、九谷五彩で絵付けされた五彩手と、赤を使わない青手とに大きく分けられますが、画風から見ても一人の陶画工だけでそうした絵付ができたとは考えられず、絵画に、そして図案や文様に精通した複数の陶画工がいたことも考えられます。加賀藩では狩野派の絵師をお抱えしていて、大聖寺藩にも絵画を学んで絵心のある者がいたからこそ、古伊万里にない画風を創り出し、武家が好むところの障壁画をモチーフにしたような大皿(鉢)や、“松に鷹”、“竹に虎”などを描いた大皿を描くことができたと思われます。
古九谷誕生の臆説については、識者による数々の解説や臆説が存在し、いまだに日本の陶芸史において大きな研究テーマとなっています。今後、このブログにおいても古九谷に関る識者による「解説」や「臆説」をさらに解説していくこととします。
作品の特徴
古九谷は世界的に高い評価を受ける日本の美術工芸品の一つといわれます。それを裏付けるものとして、古九谷以来、九谷焼は絵付にこそ命であることを意味する「九谷は絵付を離れて存在しない」の言葉です。色絵五彩手は、やきものの世界に絵画的意匠を取り込む端緒となる様式であり、青手は、デザインに豪快さと明快さが加ええられた日本の油絵のようであると評価されています。
色絵五彩手の優品、特に、百花手には、まるで一幅の絵画をながめるような味わい深さがあり、五彩(緑・黄・紫・青・赤)を活かしながら、山水・人物・花鳥など、雅味ある意匠を表しています。その絵画的意匠は、当時の狩野派 宗達・宗雪の影響を受けたと思われるもの、中国明末に刊行された『八種画譜』や寛永末年に輸入された南蛮文物の意匠から得たものなど、実にさまざまですが、単なる模倣や写しではなく、古九谷独特の意匠や装飾に置きかえられています。
青手は、緑と黄の二彩を基調として、全体を色で包み込んだ描法ですが、それは、まさに色絵五彩手の線を主体とした表現と異なり、濃厚な緑といくらか鮮明な黄を主体とした二色の色彩によって、ダイナミックな作風を見せてくれます。この素地全面を絵の具で塗り埋める青手は九谷独特のものといえます。
古九谷の絵の具は、古伊万里と異なり、呉須の線描の上に厚く盛り上げられ、さらには線描きを塗り潰しています。絵の具で塗り潰すことによって、多くの色を感じさせ、古九谷独特の絵模様が創造されました。九谷焼陶芸家 北出不二雄(故人)氏は、「古九谷の素地にはいろいろな手がある」と述べたとおり、古九谷の素材的な特質のために、こうした色相の異なる素地の上に釉掛けし、絵付したことから、微妙な色合いとなるのは自然な成り行きであったと指摘されています。
また、特筆されるのが古九谷の大皿です。この大皿は日本のやきものにおいて珍しいほどのスケールの大きさを見せ、落ち着いていて深みのある釉薬をもって力強い描線で描かれた大胆な構図は、まさに大作と呼ぶにふさわしいといえます。
器種
鉢・皿・碗類が最も多く、わずかに瓶(徳利、花瓶など)・香炉・型物の角皿などがあります。特に、鉢類はかなり多く、大きさも大中小とあり、大きいものは40センチ超の平鉢もあり、古九谷の魅力を雄弁に語る器種であるといえます。
銘
銘の中で最も多い銘は一重角または二重角の中に書かれた「福」で、その字体は楷書・篆書・隷書、あるいは変形の字体などで書かれ、字の色が黒呉須、赤、染付などで書かれています。さらに、そうした銘の上を黄彩や緑彩で塗り埋められたものもあります。このような古九谷の銘は、数十年の間に入れ替わった複数人の陶画工(藩士であったといわれます)によって書き入れられたと考えられ、職人が決められたとおり銘を書き入れた肥前磁器と異なり、古九谷の陶画工の学識や個性が画風と合わせて銘にも表れたといわれます。
角または二重角に「福」のほかに、「五郎太夫」「祐」「大明」「太朋」や不可読文字などで、銘のないものもあります。