明治九谷の特色1.洋絵の具による中間色

明治初期、日本の美術工芸品はその美麗さと繊細さとが海外から賞讃され、九谷焼においてもそうでした。それに応えるために、先ず、絵付において絵の具の改良が必要でした。多彩な中間色が緊要で、これまでの九谷五彩では出せなかった色調でしたので、洋絵の具とその調合方法を開発することから取りかかりました。

洋絵の具は、九谷庄三がそれを使って多彩で繊細な描写をすることを始めたといわれ、明治の初め、「庄三風」という彩色金襴手の技法を確立させていました。庄三が使った洋絵の具がどういうものであったかは不明とされていますが、洋絵の具を使って彩色金襴手の作品を創作しました。同じころの明治3年(1870)、寺井の陶器商人 綿谷平八が海外に派遣した若杉弥助によって酸化コバルトが、九谷一松によって洋絵の具用の顔料が輸入されていることから、庄三もどこからか洋絵の具を手に入れて絵付に使ったことは確かです。

その後、赤、黄、黄緑、緑、淡青、青、紫などの洋絵の具や、金、銀の使い方などが改良されながら、陶画工の間に普及していきました。その後、明治12年(1879)頃になると、洋絵の具を使った、人物、花鳥、山水などが美麗に描かれた輸出九谷が製作できるようになりました。以下のように、陶画工らによって絵の具の改良・開発が行われ、中でも友田安清によって画期的な顔料(絵の具の原料)の開発が成功しました。

絵の具の研究・開発

 明治13年(1880) 陶器商人 円中孫平、鏑木商舗、松勘商店、谷口金陽堂などが外国商社から顔料を本格的に輸入し始めたてから、洋絵の具が普及していきました
   明治17年(1884) 洋絵の具で濃淡を出すために、テレピン油の使用が始まりました
 明治18年(1885) 清水美山が松岡初二と協力して四分一色を上絵に表す方法を始める
 明治24年(1891) 友田安清が友田組を設立し、陶磁器顔料の研究と製造を始めました
 明治26年(1893) 友田組が“白盛”を開発しました(*1)
 明治41年(1908) 石野竜山が新しい顔料を開発しました(*2)
 明治43年(1910) 友田組がローズ色、ルビー色、藤色、黄色などの合金顔料の製法を確立しました

 

(*1)友田安清による顔料(絵の具の原料)の開発

友田安清は、納富介次郎に“西洋式顔料着画法”を、ドクトル・ワグネルに“製陶法と顔料調合法”を学んだ経験を活かし、明治18年ころから陶磁器の顔料の研究に没頭し始めました。それは中間色が出せる輸入顔料が高価であったために手に入りにくく、手に入ったとしても九谷焼の素地と相性が悪いものがあったからです。

加えて、九谷五彩には透明感があって表面の艶、層の厚さが醸す深みのある発色ができるものの、“盛り絵の具”と呼ばれるとおり、濃い色を出すために厚く盛り上げなくてはならず、そのときに釉切れ(素地が見えること)を起こすことがありました。あるいは釉薬において素地から剥離してしまうことがありました。

一方で、洋絵の具で濃淡を出すためには、テレビン油を使えば、厚く盛らなくてもすみましたが、ときには九谷焼の素地と相性の悪い洋絵の具があって、発色もうまくいかずに粗悪な絵付のまま、製品が販売されたことがありました。
こうした顔料と絵の具の事情を見て、友田安清は陶磁器の顔料の研究に没頭した結果、明治24年(1891)に石川県立工業学校教諭の職を辞し、実弟 吉村又男と共に“友田組工場”を設立して顔料の開発と製造に着手しました。早くもその年に、九谷焼のために改良された顔料が製造されました。完成した顔料の品質は海外のものより優れ、安く、九谷焼の素地にうまく適合するものでした。

友田組が開発した顔料は36種類に及び、特に、“白盛”が含まれていたことが九谷焼にとって大いに意義あることでした。九谷焼では“九谷五彩”と呼ばれる青,黄,紺青,紫,赤の五色の和絵の具がありましたが、この五色に加え、素地の白とは異なる、白の絵の具が使用できるようになったことで、表現の幅が広がったといわれます。

その後も、友田組では研究開発を重ねたことにより、次々に多くの顔料が製造できるようになり、明治43年(1910)には100種類あまりの顔料を輸出するまでになりました。

(*2)初代 石野竜山

石野竜山は、明治35年(1902)、釉下彩に等しい黄彩、緑彩、染付藍、茶褐釉、淡縁釉、桜色氷裂釉、真珠釉などの上絵釉( 陶磁器の上絵付けに用いる絵の具の顔料)を次々に開発しまし、それらを用いて作品をより高尚なものに仕上げました。