明治九谷の特色2.様々な絵付と技法の改良 日本画的な絵付

明治政府は、明治6年(1874)のウィーン万国博覧会を前に、出品された作品などがいまだに日本を代表する「美術工芸品」の域に達していなかったと判断し、日本画の様式を応用した伝統的かつ新味のある図案に変更を迫られました。

(1)伝統的な図案の改良

日本画の様式を応用した伝統的かつ新味のある図案に変更することを迫られた明治政府は、明治9年(1878)のフィラデルフィア万国博覧会、翌10年の第一回内国博覧会に向けて民間企業や産地の指導強化に取り組み始めました。工芸品の絵画性を高めるため、工芸品のための図案集を何回かにわたり編纂しました。それが、起立工商会社の『製図送付記』(工芸図案集)であり、明治政府の『温知図録』などでした。こうした図案集の編纂は明治18年(1887)ころまで続き、産地の図案を改良するために使われました。

これらの図案集には、菊、梅、蓮、鳥などの花鳥、古代紋、鳳凰などの図案・文様が掲載せられ、人物は唐人物から日本の美人画や武者絵に変わりました。それは、図案集が日本画の絵師らによって描かれたものであったからで、『製図送付記』には山本光一、渡辺省亭、鈴木華邨(かそん)、鈴木誠一、三島蕉窓らが、『温知図録』には博覧会事務局に出仕していた納富介次郎が編纂担当となって、岸光景、中島仰山、岸雪浦、狩野雅信、小林述作らが制作に関与しました。

納富は出来上がった図案を各陶磁器の産地に示し、場合によっては産地まで出向いて図案を使って指導しました。その図案集の中には明治有田の作品と一致するものがいくつか確認されていますが、九谷焼においては、赤絵・金襴手の図案が残っているものの、その図案を用いた作品が見つかっていないため、実際に図案集が用いられたかは不明です。上の図案は阿部碧海窯に対し提示された『温知図録』(東京国立博物館所蔵)の図案ですが、実物に利用された作品があるかは不明です。

こうした政府の工芸図案の編纂と指導に影響を受け、石川県は、明治13年(1882)、東京で設立された「龍池会」に倣って、工芸図案の研鑽のために石川県勧業美術館に“蓮池会”を設立し、工芸品の図案が研究されました。次第に、明治九谷には、陶画工によって古い図案や故事などをもとに考え出された絵画的な図案が多くの作品に見られるようになり、特に、博覧会への出品作、輸出九谷には絵画的な図案が中間色に使って色彩豊かに描かれたため、西欧から高く評価されました。ここにも、「九谷焼が絵付を離れることはない」ということが見てとれます。

(2)九谷焼独特の絵付技法

明治10年(1877)頃~ 虫喰い(口縁に釉薬の釉剥げ)の技法、石目打ち(花鳥、山水図に細かい点を並べる技法)が使われました
明治15年(1882) 清水美山が盛金絵付(*)を始めました
明治18年(1885) 清水美山が松岡初二と協力して四分一色を上絵に表す方法を始めました
明治30年(1897)頃~ 洋油彩、水金(みずきん)が普及し始めました
大正元年(1912) 青粒、白粒の技法が広まりました 水田生山が始めたといわれます

 

*清水美山の盛金技法

盛金の技法とは、ろくろ形成された生地の上に絵具を塗り重ね、焼き重ねながら、ひとつひとつの模様を型取り、最後にその上に本金を塗り重ねる方法。高い技術力が求められ、あまりに手間暇がかかったため、一時途切れましたが、再び三階湖山がこの絵付技法を広めました。

 

 

(3)色絵と青九谷の再現

松本佐平「松雲堂風」
(0063)  松本佐平は、明治22 年(1889)頃から赤九谷を制作しなくなりました。それは、能美郡で赤九谷や金襴手の陶画工が多く活躍していたにもかかわらず、青九谷の陶画工が粗製乱造していたことを目のあたりにして、本来の青九谷の良さを取り戻した画風を再び築くことに専念するためでした。

数年に及ぶ研鑽の末、明治26年(1893)頃、赤九谷と青九谷の双方を融合した「松雲堂風」という画風を創り出しました。その画風の特色は、図案を器面の全体に描く点でした。それはより絵画的な画風であり、図案を描くための十分な余白が確保され、白い器面一杯に図案が絵付されました。描かれた図案については、赤九谷で盛んに用いられた百老図や唐子などの人物図はほとんど取り入れず、多彩な絵の具で描かれた花鳥図が多く見られ、特に“孔雀に牡丹”は佐平オリジナルの意匠になりました。

徳田八十吉 青九谷の絵の具の再現

初代徳田八十吉は、明治23年(1890)、17歳のとき、陶画の研鑚を積むために松本佐平に入門し、そのときに目にした「古九谷」や「吉田屋」の青手作品に強く惹ひかれました。その後、明治26年(1893)、陶画工の徒弟進級試験の卒業試験に合格し、陶画工としての資格を得たのを機会に独立し、古九谷、吉田屋の画風の再現という自らの目標を定め、素地や釉薬について学び、青九谷の色釉の調合技法を研究し続け、ついに完成させました。

松本佐吉 倣古九谷の再現

初代 松本佐吉は、明治41年(1908)、佐平の養子になり「松雲堂」を引き継ぎました。佐吉の作品は、九谷五彩(青,黄,紺青,紫,赤)を駆使して青九谷の美しさを表現し、古九谷、吉田屋窯などの絵柄と色合いの再現に情熱を注ぎこんだ作品が多く残しました。このために、佐吉は明治九谷における“青九谷の巨匠”と称されるまでになりました。

 

 

 

 

(4)九谷細字

明治九谷の特色を表すものの一つとして、明治15(1882)年頃、野村善吉、宮荘一藤、高橋北山らが細字をたくさん九谷焼の器面に書き入れることを始めて以来、金沢九谷の一つの特色となりました。次第に広まり、明治20年(1887)頃よりこれに倣う陶画工が続出し、金沢九谷では、清水清閑、笹田友山、竹内誠山、八田逸山らが、深盃、楊枝立て、茶碗、飯碗などの内面に詩文、千字文などを書き入れました。
さらに、この九谷細字は、能美地方に広がり、明治28年(1895)、野村善吉の指導により小田清山、大原江山らが細字を始め、明治30年(1897)頃に全盛期を迎えました。さらに、大正元年(1912)から小田清山が細字を草行体で書くことを始めました。