3.多様な陶工と陶画工
石川県内の九谷焼の窯元を取り囲む環境は、明治期になると様変わりしました。石川県は、これまでの加賀藩と大聖寺藩の保護や援助を失った窯元や旧藩士を救済するため、九谷焼の製造を奨励しました。それを後押したのが明治政府の殖産興業と輸出振興の政策であり、欧米での万国博覧会への参加や内国勧業博覧会の開催などを政府自ら行いました。
こうして、多くの窯元と陶画工が県内各地方の特色を活かして美術工芸品、国内向けの日用品を製造する産業九谷が次第に大きく成長していくなか、能美、金沢、江沼のそれぞれの成り立ちから、その絵付や画風において多様な九谷焼の様相を見せました。
(1)能美・小松地方の窯元と陶画工
江戸末期に能美地方では、九谷焼の生産が加賀藩の殖産事業として、若杉窯や小野窯において盛んとなりました。さらに、斎田伊三郎(歿後に道開と呼ばれました)や九谷庄三のような絵付を専業とする中心的陶画工が現れ、この地方の豊富な陶石をもとに製造された良質の素地と使って絵付する体制が整い始めました。それに加えて、製造された九谷焼が陶器商人の仲立ちで販売されるという、素地、絵付、販売の分業体制ができあがりました。
ただ、“日本風ならどんな絵柄でもよい”といった“サクラとキクが同居した”ような商品に対し、国内外の需要先から九谷焼の粗製ぶりが指摘され始め、明治15年(1882)頃から、能美九谷は美術工芸品的な作品と、国内向けの生活雑器とに二分されるようになりました。
こうした状況のなか、松本佐平らは、画質の改良と陶画工の技術の向上をめざして、徒弟試験制度のもとで技能検定の導入などを取り入れて、能美九谷の製造体制を改革することに取りかかりました。さらに、松本佐平は赤九谷の陶画工が多く誕生していたにもかかわらず、青九谷が粗製乱造されていたことを目のあたりにして、本来の青九谷の良さを取り入れた画風を創りだすことに専念しました。
詳細について;「明治九谷の歴史」(1)能美・小松地方の窯元と陶画工
(2)金沢地方の絵付工場と陶画工
金沢地方では、伝統工芸産業の振興とそれに携わる人々の育成のため、県都金沢に、勧業試験場、博物館、工業学校などが設立されました。金沢には加賀藩の御抱絵師やその流れを汲む絵心ある絵師が多く、最後の磁器生産をおこなった民山窯の末裔がいたことや、京都と並んで美術工芸家が腕を振るうことのできる土地でしたので、優れた美術工芸家も多くいました。特に、元藩士には美術工芸の観賞眼の高い者が多かったことから、明治の初期から中期にかけて多くの絵師が輩出され、直接間接に金沢九谷の絵付に大きく関わりを持つことができました。
そして、石川県が納富介次郎、ドクトル・ワグネルなど秀れた磁器の指導者を招いたことで、絵付の技術や顔料の研究が他の地方よりも早く進みました。その結果、金沢で活躍した陶画工には、当初、(1)阿部碧海窯のように、陶器商人の注文品を絵付する絵付工場で専属画工として活躍する者、(2)鏑木商舗、松堪商店、谷口金陽堂などのような陶器商人の経営する絵付工場で専属画工として活躍した者、(3)清水美山のように、他からの注文に応じて自家で絵付をする者、この三つに分けられましたが、明治中頃から、(2)及び(3)の陶画工に集約されていきました。
詳細について;「明治九谷の歴史」(2)金沢地方の絵付工場と陶画工
(3)江沼地方の窯元と陶画工
江沼九谷は、能美地方のように窯元、陶画工、陶器商人といった完全な分業体制の下で量産されず、再興九谷の時代と同じように、小規模ながら、窯元を中心に優れた陶画工によって優品が生み出されました。加えて、幕末の松山窯、九谷本窯で育成された陶工たちが窯元に成長し、良質な白素地や染付を生産し、その後自ら絵付もしました。
窯元には、木崎窯、九谷本窯(永楽窯)が幕末から絵付窯の火を絶やさずに創業し続けていたので、明治12年(1879)に九谷陶器会社が設立され、その後、そこに集まった竹内吟秋、浅井一毫、須田与三郎(後の菁華)ら優れた陶画工は独立して活躍し、中村秋塘らのように、優れた陶画工であり窯元が生み出されました。
こうして、江沼地方には手作りの良品を生産する気風に満ちていたので、これらの陶画工の中から、明治末期から大正期にかけ、永寿窯、菁華窯、秋塘窯などの窯元が開かれました。その規模は小さいものの、窯元を中心にした制作活動が江沼九谷の一つの特色となり、それが今日までに繋がりました。
詳細について;「明治九谷の歴史」(3)江沼地方の窯元と陶画工