天保12年(1841)- 明治16年(1883)頃
歴史的意味
九谷庄三(文化13年-明治16年 1816-1883)は、天保12年(1841)、能美郡寺井村に工房を開き、本焼の窯を持たずに小野窯などから買入れた素地に着画することを専業としました。様々な需要に応えるため、200人とも300人ともいわれる工人を抱える工房を経営し、分業化よる生産方式の下、「庄三風」と呼ばれる九谷焼を大量に生産しました。
この大量生産方式に欠かせなかったのが、その製品を売りさばく陶器商人でした。彼らは売るだけでなく、次第に増える国内外からの顧客の要望を窯元や著画を専業とする工房に伝え、新しい商品を企画販売することも担うようになりました。合わせて、様々な需要に応じて良質の素地を大量に作ることのできる窯元も増えていき、庄三の工房は、工房が中心となって磁器が生産されるという産業九谷の礎を築いたのです。
当時、再興九谷の諸窯のすべてが吉田屋窯のように組織的に運営された窯元であったかは確かではないのですが、若杉窯や小野窯では本窯と錦窯を抱えて素地作りから製品の生産、販売まで行っていたようです。しかし、加賀藩の殖産興業政策の下で大量に生産販売するためには、庄三らによる生産方式が必要であったと考えられます。ですから、工房を中心とするこの生産方式は隣村の佐野にも広がり(斉田伊三郎による佐野九谷)、能美地方における明治期の産業九谷を支えることに大いに貢献しました。
明治期に本格的に盛んになった加賀地方の産業九谷は、工房の経営者と、陶器商人、素地の窯元などが協力し合うという体制の下、欧米からの需要に積極的に応えていきました。特に、輸出九谷の中核となった「庄三風」の精緻な上絵付の九谷焼は外国から明治初期の貿易品として好まれました。この九谷焼が“ジャパンクタニ”と称されるものであり、日本の一大輸出産業を支える一役を担うことになり、その貢献は大きいものでした。
しかしながら、庄三が明治16年(1883)に68歳で歿すると、その後しばらくして、300人を超えたともいえる弟子をまとめる者がいなくなり、弟子たちの方から独立したり、別の工房に移る者が出てきて、この工房は消滅したといわれます。
*庄三の陶歴については「九谷焼の産業基盤を築いた斉田伊三郎と九谷庄三」を参照してください。
庄三風の特色
諸窯の時期と寺井での初期
若杉窯で上絵付の陶工として歩み始めた頃の庄三の作品は具体的にわかっていないようですが、小野窯では粟生屋源右衛門から多大の影響を受けた粟生屋風の作品や「庄七」銘の赤絵細描のものが制作されました。「小野銘」であっても赤絵細描金彩や赤絵を中心とする色絵細描の作品の中で筆致の優れているものは庄七の筆になるものといわれています。
庄三は、寺井に戻ってしばらくの間、素地を小野窯から取り寄せて作品を制作していましたが、その中に上絵の画風に新しいものが加わるようになりました。それは、赤描きに金彩する色絵という程度で、いまだ多彩なものになっていなく、小野窯時代の作風から「庄三風」に移る過渡的なものといわれます。
また、庄三による楽焼も伝世され、それらでは淡い緑、黄、紫などの絵の具を軽く用いられ、この道の名工 源右衛門との往来が頻繁にあったことをうかがわせ作品が残っています。
彩色金欄手「庄三風」の誕生
庄三は、次第に、故事に基づく南画風な題材をもとに赤絵細描に色絵と永楽風な金彩を加味した華やかな「庄三風」を完成させて行きます。
庄三の用いた素地は、初めは小野窯のものでしたが、後に佐野窯の良品を選択し、茶褐色な素地よりも淡い鼠色なものを好み、白磁を用いることは少なかったといわれます。庄三は、白磁を採用した場合、庄三の好んだ色合いと不調和になることがわかっていたといわれます。
庄三の彩釉には、西洋絵の具から多彩な絵の具が用いられ、また九谷焼の中で最も多く金銀が加えられています。これによって精緻繊細の筆を揮って爛漫とした花卉の密集したものを描くことが可能になりましたが、その複雑な釉を一図に網羅する際、あるものは淡白に、あるものは濃厚にするため、二度窯によって火力を適度に保つようにした秘法は他の追従を許さないものがあります。これが、いわゆる彩色金欄手といわれる「庄三風」の完成でした。
彩色金欄手「庄三風」の特徴
庄三は、慶応元年(1865)頃、いちはやく洋絵の具を取り入れ、 独特の色調のある赤・えん脂・白盛・黒・茶と、彩色といわれる緑・黄・紺・青・紫・淡緑と更にこれらの色をそれぞれ混ぜて中間色を出すことに成功し、この中間色で絵付を行い金譚手も取り入れました。この多彩な色を駆使した彩色金欄手は「庄三風」と称され、外国人の好みに適していましたので、明治前半の輸出貿易品として大量に輸出されました。
庄三は素地を装飾するとき、この絵付方法をいろいろな模様に活かしました。間取り内に守景・木米・八郎右衛門などの長所を取り入れる手腕は実に見事でした。ただ、中国風の山水を描くこともありましたが、人物・禽獣を取り入れることは殆ど稀でした。
一方で、農村地帯で働く農民の姿に強く愛着をもっていたようで、農耕図・茶摘み図などを描いた優品には、当時の農山漁村の風景を大和絵風に描いたものがあり、それらは今も名作として評価が高く、当時の陶画工としては異なる特色といえます。
庄三は嘉永年間(1848-1854)頃に庄三と改名しましたが、そのころの作品には、歴史画や中国故事などから花鳥・山水・霊獣などを、当時の画壇に見られた北斉風や南画風の筆づかいで描かれているものがあります。
また、大きな器には割取りの方法を使って多彩な色絵を繊細に写実的に華やかに表現しているものがあり、周辺の地模様を赤絵に金彩を加えて一段と美しく仕上げています。
八郎手との比較において
「圧三風」が「八郎手」と比較されることがあります。精美な赤絵金襴手を巧みに制作した宮本屋窯の「八郎手」が同じ金襴手であっても自由奔放な画風で巧みに画題を表現し、雅味を忘れていないといわれるのに対し、「圧三風」は、間取りに腐心しながらも、抑揚をつけた画風をうまく取り込んでいるといわれます。
庄三の作品は艶麗絢爛な点では極度に達しているものの、風韻雅致に欠ける恨みがあると指摘されることがあります。ただ、言えることは、時を同じくして、江沼と能美の二地域にあってこの二つの作風が加賀赤絵の最たるものとして世に出したことであり、他の磁器の生産地に見られないということです。
庄三工房の銘
九谷庄三は、天保3年、17歳のとき、同時代の斉田伊三郎とは正反対に、小野窯で絵付の才能を発揮し、早くも銘「庄七」(庄三の幼名)のある赤絵のほか、庄三の手によるものと思われる赤絵を次々に製作しました(後世、この赤絵を“姫九谷”と呼ばれました)。
その後、庄三は加賀各地の窯を遊学したのち、天保12年、26歳のとき、寺井村に戻り、絵付工房と絵付窯を開き、40余年に及ぶ絵付業を開始しました。庄三の絵付業は素地造りとの分業を図って大量生産を可能とさせ、庄三は最盛期には200人とも300人ともいわれた大勢の工人を抱える工房の経営者となりました。そこで、工房を代表するために製品に「九谷/庄三」(/は二行書きを意味する)を書き入れる必要が生じたと考えられます。
九谷庄三の銘を追って見ると、初め「庄七」または角「福」に「庄七」の組み合わせから始まり、角「福」に「庄三」になり、さらに角「九谷」に「庄三(小文字)」へと変化しました。すでに、文政年間に九谷焼という呼称が吉田屋窯の製品に使われ、銘文の中にも「九谷」もあったことから、庄三工房でも“九谷焼を作った庄三という意味でこの形式を取り入れたと考えられます。
その後、明治に入り苗字を名乗ることが許されると、庄三は姓名を“九谷”と名乗り、姓名と同じ一行書きの銘「九谷庄三」を一時使いましたが、庄三工房の製品の銘に「九谷/庄三」を書き続けました。庄三が製品を大量に売ることができたのは、この銘が製品に“ブランド力”をつけさせ、国内外から人気を博したといわれます。こうして、明治九谷の陶画工の多くが「九谷」と名前または屋号を組み合わせたことから、銘「九谷/○○」の形式が広がったと考えられます。
ただ、庄三工房の使った銘の持つブランド力が流用されることになり、今でも銘「九谷/庄三」の製品の真贋が問題になっています。工房で製作された製品は九谷庄三とその高弟によって監修され「庄三風」の画質が維持されていたので、高弟が書き入れた銘であっても“九谷庄三(工房)が制作したもの”と見なされたといわれます。かえって、それが庄三の生前から、銘「庄三」の書き入れられた贋作が横行することになり、さらに、庄三が明治16年に歿して工房が自然消滅したことに乗じて、工房にいた一部の工人や一部の陶画工も銘「九谷/庄三」を入れた製品を造りだしたため、銘「九谷/庄三」の模倣品がたくさん出回ることになったと考えられます。