九谷焼の歴史 九谷本窯(永楽窯)

万延元年~明治3年(1860~1870)

窯の盛衰

九谷本窯は、万延元年(1860)、大聖寺藩が九谷焼の再興と殖産興業のために興しました。藩の産物方(特産物を扱う役所または役人)に藩士の塚谷竹軒、浅井一毫を起用して、閉窯された宮本屋窯を買収して藩窯として開きました。山代村(現加賀市山代温泉)の三藤文次郎と藩吏の藤懸八十城が経営にあたりました。

藩は藩経済の発展を図るために能美郡における九谷焼の諸窯による殖産興業の進展を見て、吉田屋窯、宮本屋窯などによって創意に富む九谷焼を創り出してきた風土とそこで育まれた熟練工に着眼して九谷焼を地域の殖産興業の中心にさせようとしました。そのため、窯の名は九谷焼再興の原点であることを意味する「九谷本窯」としました。

当初、窯の経営は芳しくなく窯が藩の財政を圧迫したこともあり、文久3年(1863年)、もう一つの藩窯である松山窯への支援を止めざるを得なくなり、一方で経営改善のために文次郎と八十城の二人は、木崎窯の木崎万亀の師であり京焼の名工 永楽和全の指導を仰ぐため、和全の招聘を藩主に建言しました。これが認められて和全は、慶応元年(1865)、義弟 西村宗三郎(永楽家十二代保全の養子 一時、永楽回全と称した)を伴って九谷本窯に来ました。

永楽は招聘の契約期間(3ケ年間)の間に素地を精良なものに改良し、形状、絵付などに優れていて賞讃されました。このため、この窯は「九谷本窯」と呼ばれるよりも「永楽窯」と呼ばれ有名となりました。

その後、藩内には良質の陶石が乏しくて殖産興業として発展拡大する基盤が弱く、多くの素地窯を持つ能美郡に太刀打ちできないことがわかりました。藩の財政改革によってこの窯への資金の支援が途絶え、その上、永楽との契約が終了しました。再び、当初の経営者 文次郎と八十城が経営にあたりましたが、明治3年(1870)、廃藩置県の動きもあって藩窯として終わり、翌年にこの窯は塚谷浅・大蔵寿楽に譲渡され、”民営 九谷本窯”として再出発しました。

永楽和全 九谷焼での功績

永楽和全(文政6年-明治29年 1823-1896)は慶応元年(1865)に大聖寺藩の九谷本窯に招聘され、明治3年(1870)に京に戻りました。藩との契約期間3ヶ年が終わった後も大聖寺藩内にとどまり、九谷焼のために大きな功績を残しました。

永楽家が京焼の名家だけあって、九谷本窯での和全は色彩・形ともに鮮麗といってよいほど優れた作品を制作し、当初は伊賀・南蛮・朝鮮・唐津写しなどであり、やがて京風の金欄手・呉須赤絵・万暦・安南・絵高麗・染付などに作品の幅を広げました。作品が醸し出す和全特有の京の雅が当時の加賀陶磁器に影響を与え新しい息吹を吹き込みました。

この窯の素地は、はじめ大聖寺藩内の陶石を使って造られましたが、その産出量が少なく均質でなかったため、京都および能見郡の陶石に切り替えられました。さらに荒谷陶石を用いると、極めて表面が滑らかで薄く綺麗に仕上がり、表面は硬く、少し青味を帯びた素地に改良されました。形状は和全の巧妙な轆轤操作によって風雅な趣を見せました。

絵の具には黄・青緑・青・紫と、古九谷の丹ばん(赤色顔料)が用いられましたが、赤絵金襴手の赤色には永楽家に伝わる秘法で造られた南京赤(青唐辛子が完熟して赤唐辛子に変わったときの赤色)が用いました。その赤色は濃厚でありながらも、渋味や黒味がなく温和な光沢を放ち、赤色の絵の具の中でもっとも優れたものといわれます。

また、金彩の手法は赤地の上に雲・鶴・唐草などの図案を金彩し、さらに針金で削って形を整えるというものでした。この手法は飯田屋八郎右衛門や九谷庄三の金彩(金襴手)とも違い、赤色の地に描かれた金彩を和全の精巧さによって一層品格あるものにしました。

特異な作品

作品の中には染付と色釉の調和がよくとれた作品があります。外面が金襴手で加飾し見込みには簡単な鳥獣草花が染付で描かれていて、九谷焼には今までにないないいます。全般に、加賀で制作した作品には、上品さと美しい”あるさま”をどこまでも追い求めところがあり、これのために、山水図、人物図などの複雑な描画を避けたといわれます。

器種

酒器・菓子器・茗器・鉢など

銘には「於九谷永楽造」「於春日山善五郎造」「於春日山永楽造」など“和全”の名と“地名”が書き入れられたのにが多く見られます。他にも「春日山」「永楽」などの印を捺したものもあり、それらには、九谷焼が再興された地に招聘されそこで和全自身が制作したことを記す意味があったといわます。(この「春日山」は金沢の春日山窯を指すのではなく加賀市山代温泉の春日山のことを指します)