九谷焼の歴史 佐野窯

天保6年~明治30年頃(1835~1897年頃)

窯の歴史的意味

佐野窯は、天保6年、斎田伊三郎(道開は晩年の雅号)によって佐野村(現在の能美市佐野町)に開かれました。諸国の陶磁器を学んだ伊三郎は再興九谷の諸窯において指導者的役割を果たしました。この窯を築いてからは金彩の二度焼きの技法を生み出し細密画の「佐野赤絵」を考案しました。その意匠は能美九谷や金沢九谷に影響を与え、伊三郎風の赤九谷は明治期に輸出品として高い評価を得ました。

また、伊三郎は後年には素地窯を築くように近隣の陶工たちに働きかけ、素地造りと絵付を分離する磁器生産の方式を作り出しました。佐野村では村人たちがこれまでかかわったことのない磁器の生産や販売を始めることになり、農村の仕事が増えることになりました。佐野窯が中心になってこの分業制が佐野村全体の陶業を支えたことから、この窯と伊三郎が佐野村における産業九谷の草分け的役割を果たし、佐野赤絵の礎を築いた功績は大きかったといえます。

さらに、伊三郎によって育てられた多くの陶工が佐野村で独立し生業としたことから、磁器にかかわる仕事が次々創出されました。後世、伊三郎のこうした業績を讃え、「齊田道開」と称され、また明治36年(1903)に伊三郎は九谷陶祖神社(佐野町狭野神社)に陶祖として祀られました。

窯の盛衰

佐野窯は、天保6年(1835)、伊三郎が再興九谷の諸窯の指導者的役割を辞めて独立したとき、佐野村に上絵窯を開窯したのがその始まりでした。さらに、安政5年(1858年)に佐野村の与四兵ヱ山に陶石が発見されたことをきっかけに、伊三郎が中川源左衛門、深田源六、三川庄助ら陶工に働きかけて素地生産も始まりました。九谷庄三の寺井村と同じように素地作りと上絵付を分離する生産方式は産業九谷の発展の礎を築くこととなりました。

しかしながら、佐野窯は、明治元年(1868)に伊三郎が73歳で歿した後も、明治期の輸出九谷のために優品を供給し続けたものの、明治30年代に九谷焼輸出そのものが減少する中、閉窯となったといわれます。

主な陶工たち

斉田伊三郎   寛政8年-明治元年((1794-1868)
佐野村の豪農 桶屋伊三右衛門の長男として生まれ、16歳のとき、若杉窯で本多貞吉から製陶を初めて学び、21歳から5年間ほど山代の豆腐屋市兵衛のところで南京写の染付の技法を習得しました。再び若杉窯に戻り三田勇次郎のもとで赤絵の技法を学びました。

伊三郎は本多貞吉が歿し、さらに三田勇次郎が若杉窯を去ったあと、京に赴き、清水の名工 水越与三平衛(よそべい)のもとで製陶と絵付の技法について4年間ほど研鑽を重ねました。さらに、磁器先進地の肥前に赴き、窯元 宇右衛門のところで製陶、築窯、焼成法を究めました。その後、丹波、美濃、尾張など諸国の陶業地を歴遊して、1830(天保元)年、36歳のとき郷里佐野村に戻りました。

伊三郎が帰郷するや、当時、若杉窯を経営していた橋本屋安兵衛の招きに応じ、自ら習得してきた技術を若杉窯の発展に活かし、若杉窯のために大きく貢献したといわれます。その上、隣村の小野山陶器所(小野窯)との間をよく往来し、窯の運営をはじめ素地作りや絵付の向上に貢献しました。そのことは、塚野文書の“小野山陶器所大宝恵帳(おぼえ 大福帳のこと)”の中に、佐野村 伊三郎との筆跡が見られ、また、小野窯の赤絵には伊三郎の作品に似たところがあり、伊三郎が小野窯に深く係わったことがうかがい知ることができます。

天保6年(1835)、40歳のとき、若杉窯を辞して佐野村に帰り、独立しました。佐野窯(この時は絵付窯のみ)を開き、陶画塾も始めて多くの門人を集めました。その中には、松屋菊三郎、牧屋助次郎、高堂の磯右二門、粟生の平八、佐野の徳兵衛、太左二門、源兵衛、与三郎、九郎右衛門、間右衛門、大長野の文吉などがいました。

その後、伊三郎は素地窯を独立して築いたことで、素地造りと絵付が分業化されるきっかけとなり、それぞれに専業者が生まれ、特に、多くの門人を集め陶画工を多く育てました。

*斉田伊三郎の陶歴については「九谷焼の産業基盤を築いた斉田伊三郎と九谷庄三」を参照してください。

直弟子たち
伊三郎の画風を受け継いだ陶画工として、二代 伊三郎、斉田忠蔵(伊三郎の弟 忠三郎の子)、多賀太三右衛門、亀田平次郎、今川間右衛門(初代)、冨田三郎平、西本源平(初代)、橋田与三郎、三川徳平、道本七郎右衛門、田辺徳右衛門、米田宗左衛門、麻右衛門などがいました。その後、それぞれ独立して工房を開き佐野赤絵を制作しました。(詳細は「能美・小松地方の陶画工 斎田伊三郎の門弟」を参照してください。)

作品の特色

伊三郎によって制作された作品の多くは弁柄の「赤色」を多用して描かれた赤絵細密画を、まれに黒色も加えて、たっぷりとった白い余白の中に、バランス良く配置し絵画的な様相を見せていました。さらに、赤絵の上に塗った金彩の鮮やかな仕上げも特色です。赤色を多用して絵付してそれを一度焼いてから、また金彩して焼くという二度焼の手法によって金が鮮やかに発色し金色の線描に冴えを出したことです。

また特筆されるのは「百老手」と称する唐人物を器面一杯に詰め込むように多く描いたものがあり、他に「竹人物」という竹林賢人を描いた図案などもあります。伊三郎は再興九谷になかった人物図を全面に表して一般にわかりやすく親しみやすい作品を制作したので、明治30年(1897)ごろまで加賀九谷の代表的図案となったといわれます。この図案は茶器、酒器、食器などから貿易品の類までに用いられ、当時の九谷焼の代表的なものとして広く親しまれました。

器種

鉢・徳利などの日用品が多く見られます。

佐野窯を開いた斉田伊三郎の作品として伝世されている製品には、当時、すでに九谷焼の銘として広まりつつあった二重角に「福」のほかに、二重角に「九谷」の中を赤や緑で塗り潰した銘が書き入れられました。これは、伊三郎が陶画工としての作品を多く遺すことよりも、佐野赤絵の開発者であり指導者であることに徹したため、同時代の九谷庄三のように自身の銘のある作品を制作しなかったからと考えられます。

*参考;佐野赤絵と吹屋弁柄