九谷焼の歴史 宮本屋窯

天保3年~安政6年(1832~1859)

窯の歴史的意味

九谷焼の様式には、色絵磁器とは趣を異にした、赤色で全面を描く赤絵・赤地金襴手があります。この様式を極めたのが宮本屋窯です。江戸後期、吉田屋窯の「青九谷」と肩を並べて、この窯で単一な赤色の顔料を用いて制作された赤絵細描の磁器を、それを生み出した飯田屋八郎右衛門の名から「八郎」あるいは「八郎手」「赤九谷」と称賛されました。その大きな理由は赤色の顔料(弁柄)で絵付した赤絵細描が特異であったことにあるといわれます。

この様式美は明治中頃に「九谷赤絵」と呼ばれるようになり、国の内外から高い評価を受けました。宮本屋窯のほか、民山窯の鈍く輝く赤絵金彩、小野窯での赤絵細描風の姫九谷、斉田伊三郎の創めた佐野赤絵などが「九谷赤絵」の先駆をなしましたが、それらが補色を用いたために色絵とみなされ、九谷焼における赤絵・赤地金襴手は宮本屋窯において完成したといわれます。

嘉永、安政年間から明治初期にかけて、宮本屋窯の赤絵・赤地金襴手がたちまち加賀一帯に広がったことから、一時、九谷焼といえば、赤色で単一に塗られた、あるいは、わずかに金彩された宮本屋窯の「赤九谷」のことと人々に思い起こさせるほどでした。こうして、この様式は広まり、その後の九谷焼に大きな影響を及ぼしました。例えば、庄三は宮本屋窯利八(宇右衛門の子で、開窯当初から経営に携わったといわれます)から赤絵を学んで作品に活かし、また、浅井一毫は晩年の八郎右衛門からその描写について手ほどきを受け、竹内吟秋とともに自らの作品にその絵付法を取り入れました。このようなことから、明治九谷において赤絵・赤地金襴手を生み出した源がこの宮本屋窯にあったといわれます。

窯の盛衰

宮本屋窯は、天保3年(1832)、元吉田屋窯支配人 宮本屋宇右衛門が前年に閉じられた吉田屋窯を買い取り再興した窯です。吉田屋窯の末期に宇右衛門は吉田屋窯の運営を任されていましたが、ついに窯を閉じざるを得なくなり、吉田屋より窯を譲り受けて宮本屋窯を開きました。

宇右衛門は素地工に若杉窯の陶工であった木越八兵衛、陶画工に飯田屋八郎右衛門をそれぞれ主工として招き入れ、吉田屋窯時代の青手製品を一変させました。開窯からしばらくして、素地については吉田屋窯では使っていなかった、白色でやや青みを帯びたものに変え、彩色については人気の出始めてい赤絵細描や赤地金襴手に変えたのです。その結果、この窯の製品は吉田屋窯時代の「青九谷」と比肩されて「赤九谷」と呼ばれて評判となり窯の経営も順調になりました。

しかしながら、宮本屋宇右衛門が弘化2年(1845)に歿し、宇右衛門の弟 理右衛門が窯を継ぎましたが、嘉永5年(1852)、窯の主軸である八郎右衛門が48歳の若さで没したことから、衰退の方向に向かい始めました。それでも、若杉窯の陶画工 軽海屋半兵衛が八郎右衛門の代わりとして絵付にその腕をふるいましたが、安政6年(1859)、理右衛門が歿するにおよんで廃窯になったようです。

主な陶工たち

飯田屋八郎右衛門

飯田屋八郎右衛門はもとは大聖寺の染物に絵付する職人で、父ゆずりの細密描写に優れた手腕を見せたといわれ、宮本屋窯に来てから赤絵細描の絵付を完成させました。
古九谷焼以来使用してきた青・紫・黄・緑などの色を抑えながら、改良された赤絵顔料(弁柄)を用いて、民山窯の赤絵細描の技法をさらに進歩させて独自の赤絵を主体に、これに金彩を加えて赤地金襴手も制作しました。総称して「八郎手」といわれるものです。

八郎右衛門の画風は画集『方氏墨譜』(明の方干魚著 全8巻 万暦16年刊)の高尚な墨譜に由来するもので、人物・山水・楼閣または草花・禽獣などを緻密精巧に描いたことにその特色がありました。特に、百老図(青木木米が春日山窯でも用いた明末の墨譜にも見られる)を得意としました。九谷焼の中で細密繊巧を極めたものとしては八郎手が最初のものでした。

軽海屋半兵衛

軽海屋半兵衛は文政のころ若杉窯に従事していましたが、嘉永5年(1852)に八郎右衛門が歿したあと、宮本屋窯に移り、この窯が閉ざされるまでいたといわれています。

作品の特色

宮本屋窯の赤色はほかの再興九谷の赤色と異なります。春日山窯の呉須赤絵では赤色の色あいが濃厚で黒っぽく沈み、若杉窯の赤絵では”ペンキ赤”と称されるように強烈で濁りがあり、また、小野窯の赤色では”姫九谷”といわれるほど鮮やかです。一方、宮本屋窯の赤色は、当時入手できた高品質な弁柄(吹屋弁柄)の特性を最大限活かし、鮮やかな赤色に発色させ、しかもそれには光沢があり、厚く塗られても濁りがなく透き通り、緻密精巧な線描を可能にさせています。

また、八郎手の赤地金襴手はやはり精美に巧みに制作され、自由奔放な画風であっても巧みに表現されいて風韻雅致に溢れています。明治九谷の金襴手と趣が明らかに異なります。そして、画風において八郎手では見込みに模様風の画題を取り入れることはほとんどなく、種々の絵の具を用いずに絵付しても全面に奔放に描かれています。当時から人々はこの独特の赤絵細描の画風を「八郎手」とか「飯田屋」と呼び、高い評価を得ました。

宮本屋窯では赤絵金彩のほかに、花鳥・草花文様を主とする色絵、吉田屋窯から受けついだとも見られる、緑・紫・黄の三彩を主調とした青九谷系のものが若干制作されました。この窯の後半に大聖寺藩では「青九谷」を惜しんで松山窯が築かれたように、同藩では「青九谷」への関心が根強かったと見られます。

器種

鉢・徳利などの日用品が多く見られます。

宮本屋窯の製品を八郎右衛門の名前からとって「八郎」あるいは「八郎手」と呼ばれましたが、評判の製品であっても、いまだ陶画工の銘が書き入れることが見つかっていなく、一重角または二重角に「福」が書き入れられ、その他に楕円の中に入った「九谷」、文字のみの「九谷」などがあります。これは吉田屋窯以来、銘「九谷」が普及し始めていたからと考えられます。

なお、八郎右衛門は「八郎墨譜」を書き遺しました。その解説書を見ると、「八郎墨譜」が一般的な絵手本と異なることがわかり、八郎右衛門が制作した作品に描いた図案、文様などが見られ、当時の再興九谷の図案と比較できて興味深いところがあります。