九谷焼の歴史 小野窯

文政2年~明治5年頃(1819~1872頃)

窯の盛衰

小野窯は、文政2年(1819)、貞吉の没後に若杉窯を辞してきた薮六右衛門が能美郡小野村(現小松市小野町)で始めた窯です。六右衛門は若杉窯で本多貞吉から陶法を学びました。
近村の埴田・八幡・本江などの陶土を用いて製陶を始めましたが、良い素地を作ることができなかったといわれます。文政5年(1822)、郡奉行の援助を受けて徐々に事業も軌道に乗り、天保元年(1830)、同郡鍋谷村に良質の陶石を発見してから、素地の改良を図って良品を生産することができるようになりました。こうして、天保年間に、当時の名工を客分の主工として迎えいれ、最盛期を迎えました。
天保2年(1831)、粟生屋源右衛門が客分の主工として、彼の持てる技術と実績を活かして、窯の発展に尽くしました。天保3年(1832)、庄七(九谷庄三の幼名)が小野村の薮六右衛門に請われて、若杉窯から移ってきました。庄七が加わると、優品が多く制作されるようになったといわれます。また、天保6年前後、斉田伊三郎が隣村から小野窯をよく通い、窯の運営をはじめ、素地作りや上絵技術の向上に協力したといわれます。そして、わずかな期間ですが、京などで修業をして帰郷した松屋菊三郎も参加し、この窯は盛んになりました。

しかしながら、客分の主力画工が入れ替わる中、徐々に窯の勢いが失われ、天保12年(1841)、藩命により一針村の十村役 坂野善太夫が経営にあたり、藩窯「小野山陶器所」と改められ、藩の重臣や贈答品への販路の開拓が続けられましたが、弘化4年(1847)、源右衛門が蓮代寺窯に去ると、近隣に素地を供給する窯になりました。20数年、この窯の経営に尽くした善太夫が辞め、明治2年(1869)再び薮六右衛門が継いだものの、同5年(1872)六右衛門が没したことから廃窯になったといわれています。

主な陶工たち

薮六右衛門

若杉窯で本多貞吉から陶法を学び、粟生屋源右衛門とは兄弟弟子の間柄で、若杉窯では陶工として活躍しましたが、文政2年(1819)、貞吉が歿すると、小野村で窯を開きました。六右衛門自ら白瓷(じ 磁器)や青華瓷を作り、窯の経営の面では、九谷焼の窯としては初めて、自家使用以外の素地も生産販売し、また、源右衛門などを客分の主工として招いて優品を作るなど、この窯の名声を高めることに経営手腕を発揮したといわれます。

粟生屋源右衛門

*源右衛門の陶歴については「九谷色絵を再現した粟生屋源右衛門と松屋菊三郎」を参照してくださいください。

九谷庄三

*九谷庄三の陶歴については「九谷焼の産業基盤を築いた斉田伊三郎と九谷庄三」を参照してください。

斉田伊三郎(道開)

*斉田伊三郎の陶歴については「九谷焼の産業基盤を築いた斉田伊三郎と九谷庄三」を参照してください。

その他

そのほかに窯方工には打越村の興兵衛、素地工には八幡村の儀兵衛・粟生村の忠助、画工には板屋甚三郎・鍋屋栄吉(内海吉造)らが係わっていたました。

作品の特色

九谷焼の歴史の中で小野窯の作品がひときわ高く評価されるのは、源右衛門、庄七、斉田伊三郎などの名工によるところが大きく、特に、庄七が小野に移ったことによって、庄三自身が思う存分に名作を手がけることに努め、この窯で上絵付の技巧を積んだことにより、数多くの名品が残ったといわれます。

製品の画風には赤絵細描と吉田屋窯風とがあります。赤絵細描が主であり、赤に黄緑・緑・紺青・紫などを加えたもの、金彩を施したものがあり、その赤で黒味をおびていて独特の色合いを示します。画風は南画風であり、宮本屋窯や佐野窯が盛んであった時期と重なり、その繊細優美な趣から“姫九谷”の名で呼ばれ、小野窯がひと際高く評価されました。

また、吉田屋窯が閉じた後も、源右衛門・菊三郎が、青手古九谷の再現を追い求めていた時期で、わずかながら、「小野」銘の入った青手の作品が作られました。

器種

藩の御用や重臣向けの平鉢・蓋物・瓶などがあります。

“姫九谷”の名で呼ばれた製品には「庄七」(庄三の幼名)銘のあるもの、また二重角に「小野」の窯元名が書き入れられ、差別化を図ろうとしたように見られます。また、吉田屋窯が閉じられた後、なおも、粟生屋源右衛門・松屋菊三郎が古九谷青手の再現を追い求めていた時期の製品と考えられる「小野」銘の入った古九谷風青手の製品があったことも興味深いことです。やはり、銘入りの製品はその窯への高い評価を表わしたと見られ、この窯が素地窯と変容すると、無銘となったことの意味がわかります。