九谷焼の歴史 民山窯

文政5年~弘化元年頃(1822~1844頃)

窯の盛衰

民山窯は、文政5年(1822)、加賀藩士 武田秀平が金沢に興した窯です。美術工芸品を愛でる秀平は、青木木米が京に戻ってのちも春日山窯が木米好みの呉須赤絵や日用雑器の染付を焼き続けいたものの、やがて閉じられたことを惜しみ、春日山窯を再興することを思い立ったといわれます。これより3年後に吉田屋伝右衛門が古九谷の伝世品を見て再興の思いに至ったのと同じように、一介の藩士が陶業を興したその情熱は相当のものであったといえます。

本窯は、春日山窯の本窯を復興したのか、春日山の秀平自身の持地に新築したのか定かでないのですが、錦窯は金沢の里見町の自邸に数基を築きました。秀平は器種を考えることを行い、多数の職工・徒弟を抱えて、天保年間(1830~1843)、大いに生産し、製品は広範囲にわたり販売されたようです。この窯の作品が江戸の加賀藩邸の遺物の中からも見つかっております。

しかしながら、弘化元年(1844)、秀平が没すると、窯は廃絶しました。

主な陶工たち

武田秀平   1772~1844

武田秀平は、姫路藩士 花井四郎兵衛の11男ですが、京に遊学していたとき、文化11年(1814)に金沢にやって来ました。まずは、加賀藩老 前田土佐守直方に、そして、文政元年(1818)からは藩主斉廣に仕えました。同5年には、加賀藩細工所の御細工方並びに金山方主任を兼ねました。

秀平は多種多芸の人で、特に木彫の技に優れ、木彫の号を友月と称しまし、磁器では、民山と称したことから、その窯を民山窯と呼びました。養子 秀造は手捏の楽焼を作りましたが、夭折し、また、その子 考太郎、その後の信秀もまた陶業をなしたといわれます。また、秀平は書画を能くしました。なお、秀平の門弟には、彫工の石塚清助、漆工の横井屋武兵衛、木地師の小松屋直次郎、蒔絵師の越中屋某等らがおりました。

越中屋平吉   1790~1856

寛政2年、越中射水郡佐賀村に生まれ、後に金沢に住みました。1807(文化4)年、青木木米に陶法を学び、その後、独立して楽焼を業とし、香山と号しました。その製品を「卯辰楽焼」と称しました。文政年間、武田秀平が春日山窯を再興したとき、その職長となりました。
弟の幸助も陶画に従事し、文政年間、山代吉田屋窯の陶画工となりました。

鍋屋吉兵衛

鍋屋吉兵衛は、吉田屋窯で多くの優品を描いた画工の鍋屋丈助の子で、父から著画法を学んだといわれます。当時の名工たちは、赤で細描する技能を容易に習得したといわれています。吉兵衛の子 吉造は、明治初期に金沢で活躍した内海吉造であり、吉兵衛から赤絵細描を習得し、また色絵の技能にも優れた陶画工でした。

任田屋徳次   ?~1883

任田屋徳次は、春日山窯や民山窯の陶画工であった任田屋徳右衛門(1792~1873)の子として生まれ、陶技を父に習い、民山窯の陶工として赤絵細描の技法に手腕を発揮しました。その号は「彩雲楼旭山」といいます。
この窯が弘化元年(1844)頃に廃窯となると、慶応3年(1867)、加賀藩最後の藩主 前田慶寧が殖産興業のため卯辰山山麓の粒谷町に興した藩窯「陶器所並陶器竃」に内海吉造(1831?85)とともに従事しました。

さらに、徳次はこの窯が明治維新により藩窯としての役割を終えたので、同窯を譲り受け自営で操業を続け、呉須赤絵写や赤絵細描・染付による日用品を主に作りました。さらに、明治2年(1869)に阿部碧海(1842?1910)が金沢の古寺町の自邸に興した絵付工場にも一時従事しました。また、東京にも出て作陶していることが知られています。

後年の作品に、割模様に文様に諸色で描き余白部を赤地金彩とする作品が見られます。その号は「九谷旭山」を使っています。

なお、徳次の門下には女婿の初代 諏訪蘇山(1851~1922)、春名繁春(1848?1907)などがいます。

山上松次郎

山上松次郎は、若杉窯で本多貞吉から陶法を学び、陶工として大いに活躍しました。貞吉が歿した後、文政5年(1822)、若杉窯を辞して、貞吉がいたことのある春日山窯に移りました。

作品の特色

良質の陶石を使わず、金沢近郊から採った陶土を使ったと考えられ、磁胎が淡い赤褐色で、素地全体に荒い貫入があるものが多く見られます。

色絵では、黒の骨描きに主として赤を用い、ほかにも緑・黄(浅黄)・紫・紺青を施していますが、特に、赤は他の諸窯に比べ、素地の色相のため濁った色合い(臙脂赤といわれます)を見みせています。

赤絵細描では、摺金で赤の上へ文字や細かく線描を加えましたが、一度焼のため光沢がないものが多く見られます。この摺金で描線を加える絵付は民山窯が最初に取り入れました。細描風な筆致であり、一部に金彩や色絵の彩色を加えるなど、のちに九谷焼の一大様式となった、宮本屋窯の八郎手の先駆をなしているといわれます。

文様は写生に基づく草花が多く、伊万里風の色絵に見える作品があります。

器種

食器、酒器、花瓶。香炉、煎茶器など

この窯の製品は、天保年間(1830~1843)に、金沢だけでなく藩内や近隣諸国にたくさん販売され、加賀藩の江戸藩邸跡からもこの窯の碗が発掘されたように高い評価を受けました。こうした窯の製品に武田秀平の号である「民山」が銘として書き入れ、個人の号が使われたのは九谷焼では初めてでした。

ただ、角「福」が書き入れられた製品がないといわれます。それは、角「福」が書き入れられた若杉窯の製品も藩内で使われ、藩外でも角「福」が書き入れられた肥前の製品が販売されていたので、それらと差別化を図ったと考えられます。銘「民山」は民山自身への信用を示し、ブランド名であったようで、次第に、諸窯の中で差別化が起こり始めたことがわかります。