九谷焼の歴史 九谷焼の産業基盤を築いた斉田伊三郎と九谷庄三

九谷焼が国内外に大量に販売されるようになるのは明治時代に入ってからですが、すでに、江戸末期に陶画工が窯元から独立して工房を構え、加えて、良質の素地の供給を受けられたことで、明治期に九谷焼の生産は増えていきました。

再興九谷において活躍した陶工と陶画工の中で、斉田伊三郎のように独自の素地窯(佐野窯)を進んで開いた陶画工がいれば、九谷庄三のように周辺の素地窯から良質な素地を買い集めた陶画工もいましたが、二人に共通することは素地作りと絵付のそれぞれを専業化することによって完成品を大量に製作する体制を築くことができたことです。こうして、明治期における産業九谷の興隆を見越したかのように、分業による生産基盤がしっかりと築かれました。

斉田伊三郎  寛政8年-明治元年(1794-1868)

修業時期の陶歴

斉田伊三郎は、佐野村(現、能美市佐野町)の豪農 桶屋伊三右衛門の長男として生まれ、16歳のとき、初めて若杉窯で本多貞吉から製陶の技を学び、21歳から5年間ほど山代の豆腐屋市兵衛のところで南京写の染付の技法を修得しました。再び若杉窯に戻り、三田勇次郎のもとで赤絵を学びました。ところが、本多貞吉が歿し、さらに三田勇次郎が若杉窯を去ったため、伊三郎は京に赴き、名工 水越与三平衛のもとで製陶と着画の技法について4年間ほど研鑽しました。その後、磁器先進地の肥前に赴き、窯元 宇右衛門のところで、有田焼の製陶、築窯、焼成法を究め、また赤絵町を中心とする絵付と素地作りの分業による生産体制を見聞しました。そして、丹波、美濃、尾張など諸国の陶業地を巡ってから、天保元年(1830)、36歳のとき、郷里の佐野村に戻りました。実に、20年に及ぶ陶法の修業を積んだことになります。

伊三郎が帰郷するや、若杉窯の橋本屋安兵衛からの招きに応じ、これまでに修得した陶法を若杉窯の拡充に活かし、また小野山陶器所(小野窯)でも素地作りや絵付の技術向上の面でも支援しました。小野窯の赤絵作品に伊三郎の作品に似た絵付技法が見られるのは、伊三郎が小野窯で絵付を指導したためと見られます。

陶画塾の開講と佐野窯の構築

斉田伊三郎は、天保6年(1835)、40歳のとき、若杉窯での職を辞して独立し佐野村で陶画塾を開きました。工房を兼ねていたとみられますが、その生徒数は数十名に及びました。彼らは近隣の村々から集まった者たちで、その中には後に名工となった小松の松屋菊三郎がいました。彼らは伊三郎から陶法を学び、その後、伊三郎の門弟になった者、佐野村や近隣で絵付業を始めた者がいました。明治の初めの皇国地誌によると、佐野村の陶画工の数は専業者が18名、兼業者が7名と記せられ、その数は近隣の村で最も多く、伊三郎が育てた陶画工が多く含められていたと考えられます。

伊三郎が陶画塾を開いて間もなく、素地の確保が課題となりました。開塾当初は少量で済み、若杉窯、小野窯などから購入したと考えられますが、伊三郎自身の使う素地、伊三郎の門弟となった者が使う素地、絵付を学んだ村人の使う素地など、素地の使用量が次第に増えていきました。その矢先の天保12年(1841)に九谷庄三が寺井で絵付工房を開き、大勢の工人を使って作品を製作するようになったので、庄三工房でも素地の調達という課題を抱えつつあったと考えられます。

やがて、伊三郎は素地を安定的に調達できる素地窯を築くことを考えるようになったと思われます。おそらく、伊三郎は、若き日に肥前で修業したとき、有田の赤絵町(陶画工の町)の背後にあった多くの素地窯(町から独立した製陶業者の素地窯)から大量の素地が町に供給されていたのを見ていたので、佐野村にも良質の素地を製造する素地窯を築くことを考えました。

安政5年(1858)、伊三郎と村人とが協力して佐野村の与四兵ヱ山で陶石を発見したのをきっかけに、伊三郎は中川源左衛門、深田源六、三川庄助らに素地窯を築いて運営するように勧めました。陶画塾で多忙であった伊三郎に代わって素地窯を築いてくれる者を探していたところ、若杉窯で知り合った埴田の山元太吉が見つかり、佐野村に招きました。太吉は安政5年(1858)から文久3年(1863)までの5年の間、佐野村に滞在して素地窯を完成させました。これが佐野窯の始まりとされ、伊三郎が明治元年に没した後も、生産を続けました。

斉田伊三郎の絵付工房の分離

斉田伊三郎は、佐野村で素地が安定的に供給できるようになったことを受け、門弟と共に製作活動を盛んに行いました。伊三郎の画風の特色は、百老図、竹人物といった人物画がよく描かれ、それらの図案は明治30年(1897)ころまで九谷焼の代表的な図案となりました。特に、明治期に欧米に盛んに輸出された横浜焼ではこの百老図の唐人が細長く並べて文様化され、千人学者図と呼ばれて海外で人気となりました。また、絵付の特色は、赤絵と金で仕上げた茶金地に金描きしたもの、一度絵の具で彩色し焼成した上で金彩してまた焼成する二度焼きしたものなどがあり、二度焼きの手法は佐野赤絵の大きな特色となりました。

こうした伊三郎の画風や絵付を修得した門弟も盛んに製作活動を行いました。その中に、二代 伊三郎、斉田忠蔵(伊三郎の弟 忠三郎の子)、多賀太三右衛門、亀田平次郎(山月)、今川間右衛門(初代)、冨田三郎平(初代 松鶴)西本源平(初代)、橋田与三郎(初代)、三川徳平、道本七郎右衛門、田辺徳右衛門、米田宗左衛門、麻右衛門などがいました。彼らはそれぞれ独立して工房を開き、またその弟子が継いで佐野赤絵は広がりました。

こうして、独立した伊三郎の門弟や村の絵付業者(兼業も含む)などによって佐野村の絵付業は盛んになったのを見て、伊三郎は、佐野窯を絵付工房から切り離し、広く開かれた素地窯とすることを考えました。ここに佐野窯は佐野村の陶画工のための素地窯となり、伊三郎と門弟が中心とする絵付業と分けられました。こうして、産業九谷の草分け的な文豪体制の基盤ができました。この佐野窯は伊三郎が明治元年に没した以降も窯の数も増やしていき、明治九谷における佐野赤絵の発展の基盤として貢献しました。

「ブログ;齊田伊三郎  ”赤絵の村”の誕生

再興九谷の陶祖 本多貞吉

九谷色絵を再現した粟生屋源右衛門と松屋菊三郎

九谷庄三  文化13年(1816)-明治16年(1883)

若杉窯での陶歴

九谷庄三は、文化13年(1816)、能美郡寺井村(現、能美市寺井町)の農業茶屋の子として生まれました。幼名は庄七といい、嘉永年間(1848ー1854)、30歳を過ぎて、庄三と改めました。そして、明治になって九谷姓を名のりました。

庄三が陶画工となったのは、寺井村の十村役 牧野家三代 孫七が庄三の非凡な才能を早くから見抜いていたからといわれます。文政9年(1826)、庄三が11歳のとき、若杉窯に修業に出ました。若杉窯は、文化8年(1811)に本多貞吉が金沢の春日山窯から移って来て開かれた窯元ですが、庄三が若杉窯にきたときには貞吉はすでに歿して(文政2年1819)いて、当時の主工は細描きによる伊万里風の赤絵を得意とする三田勇次郎でした。庄三の最初の仕事は呉須摺り(顔料をよく摺って粒子をより均質に細かくする作業)から始まり、次第に、勇次郎からも赤絵を学んでから、絵付の作業を任さられるようになりました。若杉窯にいた時期の庄三が絵付した作品は明確でないといわれます。

小野窯での陶歴 

九谷庄三は、天保3年(1832)、17歳のころ、小野村の薮六右衛門(若杉窯での本多貞吉の門弟)に招かれて小野窯に移りました。小野窯は、文政2年(1819)に六右衛門が若杉窯から独立して築かれた窯で、天保元年(1830)に六右衛門が鍋谷に陶石を発見してからは、素地の品質が向上し、小野窯ではいろいろなタイプの陶画工が活躍するようになり、評判の良い窯元となりました。白瓷(じ)や青華瓷を作り、再興九谷の窯元として初めて良質の素地を外部に販売しました。こうして経営も安定してきたので、より多くの陶画工を求めようとしていた矢先であったと考えられます。一方、庄三は技量も高まり意気盛んでしたので、若杉窯が加賀藩産物方の命を受けた製品だけを造る御用窯に成り下がったことに満足せず、小野窯からの招きに直ちに応じたといわれます。

庄三は、小野窯へ移ってから間もなく、手腕を発揮し赤絵の作品を製作しました。一方で、赤絵細描の技法を宮本屋宇右衛門の子 理八から学び、また、小野窯に招かれていた粟生屋源右衛門から多くのことを学びました。

小野窯の赤絵の製品には、「庄七」(庄三の幼名)銘のあるもの、また庄三の銘がなくても庄三の手によるものと思われる赤絵の製品があるといわれます。こうした小野窯の赤絵が“姫九谷”と呼ばれて高い評価を受けたのは、若くして庄三の技量が高かったことを物語るといわれます。

能登呉須などの材料研究と各地の窯の指導

九谷庄三が天保3年(1832)に小野窯に来てから3年の間に、小野窯の経営は生産に追われるほど順調となりました。その後、庄三は良質な陶土や陶石、呉須や顔料などの絵の具材料、焼成温度と発色の関係などの探索と研究、陶法の指導に没頭しました。

天保5年(1834)、三田勇次郎が羽咋火打谷村深山谷で呉須を発見したとき、勇次郎に随行していましたが、後、この呉須は黒色が鮮明で、美しく発色したので、能登呉須と呼ばれて九谷焼にとってなくてはならない材料となりました。このとき、合わせて、梨谷小山焼の陶技を指導しました。また、天保9年(1838)、富山藩の命をうけ、越中婦負郡丸山村の甚右衛門窯で絵付を指導し、福光村で福光焼の製陶にも取り組みました。さらに、天保10年(1839)には、五国寺村松谷(現小松市五国町松谷)で陶石を見つけ出し、江沼郡九谷村に陶石を探しに行きました。こうした一連の活動は九谷焼を再興させようとした庄三の情熱の表れでありました。

庄三工房と絵付窯の開業

九谷庄三は、天保12年(1841)、26歳のとき、寺井村に戻り、絵付を専業とする工房と絵付窯を開きました。庄三は大勢の絵付職人と共に製品造りに精を出したところ、その生産量は順調に増えました。この工房の絵付場は、絵付職人が庄三によっておおまかに指示された構図(割取)や色使いに従って自由奔放に気の向くままに絵付を仕上げるといった雰囲気で満ちていたといわれます。

その職人の中から門弟が生まれ、さらに庄三を超える技能をもつほどの陶画工も出てきて庄三を補助しました。そうした門弟には、武腰善平(初代)、徳久弥三次、中川二作、小酒磯右衛門、中野忠次笠間弥一郎(後に金沢で陶画業を開き、秀石を号としました)などがいました。

工房の作風は、故事に基づく南画風な題材を中心に、小野窯で培った赤絵細描に色絵と金彩を加え、華やかな「庄三風」を完成した製品を盛んに造りました。さらに、大和絵的な草花、農耕図などを描いた製品を好んで制作しました。さらに、江戸末期から明治初期にかけ、それまでの九谷焼に見られた顔料釉薬のみで表現してきたものから、洋絵具を使った中間色によって多彩に絵付された精緻な描画の作風技法である「彩色金欄手」の技法を確立させ、後に明治九谷を世界に広めることになりました。この「彩色金欄手」は明治初期の九谷焼の中で大きな比重を占め、“ジャパンクタニ”の中心的画風となり好評を博しました。

製陶窯との分業(協業)

こうして、九谷庄三の工房は順調に拡大していきました。庄三と高弟の下、大勢の絵付職人(最盛期にはその数は200人とも300人ともいわれました)が大量の絵付作業をこなすことができるようになりました。しかしながら、再興九谷の諸窯が常に抱えた、良質な素地の調達がますます目の前の大きな課題となりました。

庄三は、斉田伊三郎と同様に、良質な素地を安定的に調達するために、すでに五国寺村(現小松市五国町)の松谷で良質の陶石を発見していたので、文久3年(1863)に佐野村から埴田に戻っていた山元太吉に、五国寺村の陶石を原料にして素地を製造するように働きかけたと考えられます。太吉は、佐野窯を築いて戻ったばかりで築窯の技術を修得していた上、かねてから、松原新助と同様に、独立して素地作りに取り組みたいという希望を持っていたので、庄三(工房)との協業を受け入れたと思われます。

明治期に、素地作りを専業とする太吉の素地窯を筆頭に素地屋(製陶業)が能美の各村で素地を製造するようになり、庄三工房や他の独立の陶画工、絵付工房に素地が供給される分業体制ができあがりました。こうして、九谷焼によって能美の殖産興業は発展し、庄三は実業家としても活躍しました。明治に入り、ますます九谷焼は、産業工芸品としての様相を濃くし、斉田伊三郎や九谷庄三によって築かれた九谷焼の草分け的な分業生産の基盤によってその生産が支えられました。この二人の貢献は甚大であり、それぞれの村人から“九谷焼の陶祖”と呼ばれ、今でも崇められています。

再興九谷の陶祖 本多貞吉

九谷色絵を再現した粟生屋源右衛門と松屋菊三郎