若杉窯では創業間もないころからいろいろな作風の製品が造られ、それらを見た当時の若者の中には陶工になる夢や意欲をもつ者が増えました。その一人 粟生屋源右衛門は本多貞吉に師事して、後に吉田屋窯で古九谷風の青手を再現しました。さらに、源右衛門の門弟となった松屋菊三郎も松山窯において古九谷に近い新しい画風を生み出した。こうして、この師弟によって蘇った九谷焼の伝統的様式の一つ青手方式が再興しました。
粟生屋源右衛門
若杉窯での陶歴
粟生屋源右衛門は現在の小松市に生まれ、父 源兵衛が楽焼を生業としていたので、幼いときから父の傍らで楽焼を見て自然に製陶の技を習得しました。文化6年(1809)に父が歿して約2年後、若杉窯を興した本多貞吉を頼ってその門弟になり、磁器の陶画工を目指しました。
源右衛門は父の傍らで楽焼造りを見ていたので、若杉窯に来て早くから、窯焚きや釉掛けを任され、さらに、貞吉から肥前や青木木米の京焼系の製陶技術など製陶技術を学びました。特に、絵の具作りも学ぶと、やがて絵付も担うようになりました。
こうして、源右衛門は若くして若杉窯にはなくてならぬ存在となりました。このことを示すのは若杉窯が八幡村に移るまでの作品に見られます。芙蓉手の染付に始まり、祥瑞風のもの、赤絵細描の鉢や瓶などのほか、青手古九谷風の縁・黄・紫・紺青の四彩を用いた塗埋手の一点ものなどもありあす。この四彩の絵の具はほぼ完成していましたが、吉田屋窯で用いられて開花しました。
若杉窯の作風は文政10年(1813)に伊万里風の意匠を得意とする三田(赤絵)勇次郎がやって来ると、次第に変わって行きました。そして、文化13年(1816)、若杉窯の経営が加賀藩郡奉行の直轄に移ると(若杉製陶所と改称される)、窯では製品の量産化が進み、そのうえ、文政2年(1819)に貞吉が歿すると、勇次郎が主工となりました。若杉窯の作風も変容したため、源右衛門は、もはや若杉窯には青手古九谷風の色絵の研究を続ける場がなくなり、文政3年(1820)、若杉製陶所を辞して小松に戻りました。その前後に貞吉の弟子であり養子の本多清兵衛や他の門弟もこの窯から離れていきました。
小松での楽焼作陶
粟生屋源右衛門は、文政3年(1820)、小松に戻り楽焼の窯を開きました。そこには若き九谷庄三、板屋甚三郎らが来て白磁の製法の技を教えてもらうよう乞いましたが、陶器への絵付を教えたといわれます。それはなおも源右衛門が青手古九谷の再現のために絵付の研究を続けていたことの現れであるといわれます。
同じころ、源右衛門は本多清兵衛とともに大聖寺藩の九谷村まで出向いて素地や顔料となる岩石を探し歩き、青手古九谷の再現を志して準備を進めていました。源右衛門らは、文政6年(1823)、古九谷の再興に情熱を注ぐ大聖寺の豪商 豊田伝右衛門(四代目)と出会い、伝右衛門から九谷村での開窯への参加を依頼されました。すぐに話がまとまり、源右衛門と清兵衛と共に開窯の準備に取り掛かりました。
ところが、加賀藩の藩窯の若杉製陶所の主工であった源右衛門が大聖寺藩内の吉田屋窯の築窯に参加したことが知れ渡り、若杉製陶所の管理者の了解を受けていなかったため、小松奉行所からお咎めがあり、源右衛門を「若杉陶器所」へ呼び戻され、一時は頓挫と思われました。このことは源右衛門が28歳の若さですでに名工として扱われていたかを示す証しでした。
吉田屋窯での陶歴
粟生屋源右衛門は吉田屋窯開窯への参加が許され、吉田屋窯の絵付窯の主工として迎えられました。窯の監督者の月給が二匁であったのに対し、源右衛門の月給が三匁であったことは源右衛門が指導的立場にいたことがわかります。こうして、吉田屋窯は、源右衛門、清兵衛ら多くの陶工・陶画工の努力によって、源右衛門が長年にわたり研究してきた古九谷青手に比肩できるほどの名品の数々を今に残すことになりました。
九谷焼の陶芸家 北出不二雄(故人)は著書「日本のやきもの 九谷」の中で次のように述べています。「吉田屋窯の絵の具は古九谷よりも一層落ち着いた渋さを持っており、絵の具相互が彩度や明るさの点でよく調和していて」「このような素材的な特質のために、吉田屋窯の製品はどれをとっても美しい」「青黒んだ素地に、落ち着いた絵の具を厚く盛り上げた吉田屋窯は、そのような素地故に、絵付が素地から離れることはない」と。
源右衛門は青手古九谷と趣の異なる青手九谷焼の再興を果たしたといえます。当時、絵の具の調合は熟練の陶画工の役割でしたから、吉田屋窯の作品に見られる色合いも源右衛門が清兵衛らの協力のもと、素地と絵の具との相性を探求して見つけ出された色合いと考えられ、この吉田屋窯の絵の具は後世の九谷焼に大きな功績であったといえます。
他の諸窯での陶歴
粟生屋源右衛門は天保2年(1831)に吉田屋窯が閉じられた後、能美郡の小野窯や蓮代寺窯、さらに江沼郡の松山窯などで客分の主工として、持てる技術と経験を活かしました。
特に、源右衛門は、大聖寺藩が嘉永元年(1848)に青手古九谷を復興するため、山本彦左衛門に命じて江沼郡松山村に開いた松山窯へ松屋菊三郎とともに招碑されました。この窯で源右衛門らは大聖寺前田家が贈答用品などに用いるための「青九谷」系の作品を制作しました。これらの作品は青手古九谷の完成品に近いといわれました。
「粟生屋焼」
源右衛門は青手古九谷の再現に尽くすとともに、父ゆずりの楽陶作りにも晩年までかかわり多くの優品を残しました。その作品は「粟生屋焼」と呼ばれて称賛される、趣のある優品が数多くあります。
この楽焼は素焼を強く焼き締めた上に白化粧けし、青、鼠紫、黄、褐色の彩釉を施して焼成したものです。木工品のような独特の趣のあるのが特色です。器種は硯箱・文庫・箪笥・炉縁・燭台・卓・花台などがあります。数は少ないものの、自動噴水器や水時計のような珍しい作品も作っています。こうした作品は晩年10年間余りの間に焼かれたものだといわれています。
号は父同様「東郊」で、書や小判型印あるいは円印が押されているものもありますが、数多くの作品は無銘です。
2.松屋菊三郎
文政3年~明治32年(1820~1889)
松屋菊三郎は、文政3年(1820)、小松一針村の医師 山越賢了(祐庵)の次男として生まれました。菊三郎が13歳であったころ、若杉窯や小野窯が操業して若者の中に陶工になる夢をもつものが多く、菊三郎もその一人でした。粟生屋源右衛門が吉田屋窯から小松に戻っていたので、お願いして門弟となりました。源右衛門から指導を受けて蓮代寺窯の開窯に参加し、続いて松山窯への技術的な指導などを一緒に行いました。源右衛門を師として選んだことによって菊三郎は九谷焼の色絵磁器を完成させました。
修業時期の陶歴
松屋菊三郎は、各地で製陶や陶画を修業してきました。
天保4年(1833) | 吉田屋窯から小松に戻っていた源右衛門に師事しました |
天保6年(1835) | 斉田伊三郎や古酒屋孫次に陶画を学びました |
天保8年(1837) | 石川郡大野の中村屋辨吉の紹介で摂津国三田の九鬼侯の御庭焼に携わりその色絵磁器に改良を加えました |
天保10年(1839) | 京に出て初代 高橋道八の子(三男)尾形周平から本格的に正統な陶画を、また山本修栄から楽焼を学びました |
蓮代寺窯での陶歴
松屋菊三郎は、弘化4年(1847)、27歳のとき、郷里に帰り、小松の呉服商 松屋佐兵衛の養子となり、八代目 松屋として呉服商を継ぐとともに、粟生屋源右衛門が経営していた蓮代寺村(現小松市蓮代寺町)の楽陶の窯を譲り受けて、製陶に取り組み始めました。まず、その窯を磁器窯に改造し、源右衛門の指導のもと、古九谷の再現を目指しました。これがいわゆる蓮代寺窯の始まりで、白磁に五彩で絵付する難しさを克服して古九谷風の優品を多く残しました。
菊三郎は蓮代寺窯の後半の活動期に白い素地を製作することに励みました。素地にかける釉薬と和絵の具との良い相性を見つけ出すためで、白い素地に五彩で絵付するための独自の陶法を見つけ出しました。それは当時の技術で古九谷を再現しようとしたとき、白いガラス質の素地に和絵の具が付着しにくく、そのために絵の具の剥落が起こり、あるいは付着しても和絵の具に貫入ができたからです。おそらく、釉薬が溶け過ぎて表面がガラスのように硬く光沢がありすぎると、素地に九谷焼の和絵の具を盛り上げて塗る絵付が向いていないことに気が付いたと考えられます。
菊三郎が着目したのは古九谷の白い素地でも和絵の具が盛り上げて塗られても、よく付着していることに注目しました。九谷古窯の素地の表面はやや鈍い光沢を放ち細かな柚子肌に仕上がっていて、その素地に和絵の具によって厚く盛り上げて絵付されても剥離や貫入などが起こらないことに気が付き、素地と和絵の具には微妙な相性があることを突き止めまたといわれます。さらに、源右衛門から指導を受けながら、釉薬と和絵の具の相性を一層研究して古九谷風の釉薬と和絵の具のそれぞれの調合方法を完成させたといわれます。
この菊三郎が考え出した調合方法は、先ずは、青手古九谷に近い九谷焼を制作するための手法として確立され、その後、陶工たちによって改良が加えられて九谷焼の中心的な伝統的技法として今に至っています。菊三郎と遠縁にあたる三代 徳田八十吉が彩釉磁器(*)が生み出す大きな要因になりました。
*彩釉磁器
本焼きした磁器素地に色釉を塗りつけ、焼き付けたものである。通常の色絵磁器は低火度の錦窯で焼き付けますが、彩釉磁器では、高温度の本焼きで焼き付け、より高い透明感と深みを得ることができるといわれます。
菊三郎は、さらに、蓮代寺窯での素地の焼成温度を高めることや素地への着画の研究を精力的に続け、本格的に磁器を生産するため諸々の改良を加えた上で、慶応元年ころ、隣村の本江村にこの窯を移しましたが、八幡村に新しい窯を築いたことによって蓮代寺窯は閉じられたと考えられます。
松山窯での陶歴
松山窯は、嘉永元年(1848)、大聖寺藩が吉田屋窯以来途絶えていた青九谷を再現するため、山本彦左衛門に命じて江沼郡松山村(現加賀市松山町)に窯を築かせた窯です。その前年に小松の蓮代寺窯を立ち上げていた源右衛門と菊三郎が招かれました。二人は蓮代寺窯の間を往来してこの窯でも青手古九谷風の作品を制作することに精を出しました。
この窯が藩の贈答品を制作することが目的でしたので、優品であることが求められました。吉田屋窯の青手よりも青手古九谷により近いものにし、山水画を絵付するときは写実的に表現してより絵画的であることが求められました。
そこで、古九谷、吉田屋窯、そして松山窯の三者を比べると、古九谷の山水画には北宋画に見られるような険しい岩山だけが際立った風景画が描かれ、吉田屋窯では柔らかい筆致で南画風の山水画が描かれています。これらに対して、菊三郎はすでに当時の絵画に見られていた写実的な表現方法を取り入れ、山水の風景を遠景・中景・近景という実際の風景に近い写実的な方法で描きました。菊三郎はすでに京焼からこの写実的な描写法を学んでいたので、その描法を松山窯の山水画に取り入れたといわれます。明治以降、この描写法が多くの名工も取り入れたことで、九谷焼が絵画的であるとの評価を受けることになりました。
菊三郎は、源右衛門が文久3年(1863)に歿して、さらに松山窯が民営されたため、この窯に関わることを止めました。小松に戻り、時に加賀藩産物方の要請で小野窯の指導などに当たりました。
明治期の陶歴
松屋菊次郎は考え付いた古九谷に近い彩色の技法は、明治期に子の松本佐平に、さらに、佐平の義弟である初代 徳田八十吉とその代々に伝わりました。まさに、菊三郎は、当時盛んであった「赤九谷」(金襴手を含む)に対する「青九谷」の陶画工の系譜の始まりをなし九谷焼の歴史にその名を残すこととなりました。
菊三郎は、明治元年(1868)、松本姓を名乗り、八幡村の窯を子の松本佐平に譲って隠居しました。なおも作陶を続け、曜栄(通称、佐兵衛と呼んだ)と号し、明風の五彩手を青手風に変えた作品を製作しました。この裏印が陽刻「菊」と入れられているといわれます。