明治九谷の歴史 明治九谷を売った陶器商人たち

井上商店 陶源堂/円中孫平 円中組/打田平太郎商店/織田甚三商店/鏑木商舗/酢屋久平 清雪堂/谷口金陽堂/松勘商店/綿野吉二商店/綿野安兵衛/綿谷平八・平兵衛
 

欧米との交易経験のなかった日本でしたが、日本の交易は磁器の輸出に牽引されて大きく発展しました。特に、石川県出身の陶器商人は、欧米の嗜好をいち早く取り込んだ図案や器種を製作するように陶画工に依頼し、輸出九谷の販路を一気に拡大しました。その一方で、明治15年ころから輸出に陰りが見えてきたとき、その状況の原因や背景を素早く捉えて、陶画工(松本佐平藤岡岩花堂)と協力して対応したのも陶器商人でした。それは欧米市場における販売情報(嗜好の変化やクレーム)を迅速に伝達する仕組みを考え出し、九谷焼の近代的な産業制度を導入することでした。これによって品質向上のための教育と絵付指導の強化が図られました。

 井上商店 陶源堂

明治10年(1877)開店、(廃業)?

初代 井上勝作(天保13年(1842)生、明治42年(1909)歿)は、藩政の末期から江沼地方の産物である、山中の漆器を中心にこの地方の産物を商っていましたが、明治10年(1877)頃に陶磁器専門の商人となり、井上商店の基礎を築き上げました。江沼地方を販売基盤にして京阪方面にも多くの顧客、小売店を得て、明治38年(1905)頃には江沼地方随一の陶器商人となりました。

初代は金沢から陶画工を招いて、地元の北出窯、蘇川窯などの素地に絵付をした製品を自家生産しました。例えば、銘「井上製 雪山堂画」をもつ、大きく見事な輸出用の花瓶は金沢九谷の名工 赤丸雪山が絵付したものです。

三代 井上隆平(明治18年(1885)生、大正11年(1922)歿)は、若死にした二代 隆平の後を継いで、すでに江沼随一の陶器商人として精力的に製品を開発しました。素地を北出窯、松田窯、寿楽窯、八幡の窯元などから仕入れ、専属の陶画工が絵付して、関西を主として全国の陶器商、貿易業者に卸売りしました。

特に井上商店を有名にさせた製品は、伊万里、京焼を中心に国内各地の色絵の名品を研究して、その特色を取り入れた製品です。中でも伊万里風や柿右衛門風の作品は本歌を凌いだといわれ、大聖寺伊万里と呼ばれた製品の名声は欧米まで広がったといわれます。

また、明治45年(1911)、九谷村の旧窯を復興するために巨資を投じ、製品を開発しました。九谷村の原石を用い、山代の大蔵寿楽の高弟 宮崎作松ら熟練の陶工数名を招いて素地を作り、福山虎松らをして古九谷風の絵付をさせ、古九谷に類似した製品を作りました。このほかも、吉田屋窯、永楽風などの倣古品を作り、盛んに販売をしました。

円中孫平 円中組

円中組(主宰者 円中 孫平) 慶応3年(1857)~明治43年(1910)

円中組は、慶応3年(1867)に円中孫平が大阪で貿易商社を創立したのが始まりで、円中が亡くなるまで事業が続けられました。その間、海外での活動を通して、石川県の各種産業の向上発展のために大きな功績を残しました。

円中組は、明治に入ると、九谷焼の貿易に乗り出し、阿部碧海窯の製品(コーヒーセット、茶器、食皿、菓子皿など)を取扱い、長崎と神戸の支店から輸出しました。また、名工の春名繁春八田逸山らが陶画工として従事し、また多くの名工を抱えていた為絢社に注文して輸出しました。パリやニューヨークに円中組の支店が設けられ、九谷焼、金沢銅器が盛んに輸出されました。

明治6年(1873)、政府によって、技術や製品の品質において西洋の新技術を習得するため、各分野の技術伝習生77人がウイーン万国博覧会へ派遣されたとき、伝習生の納富介次郎ワグネルから様々な指導を受け、欧州各地の窯場で調査研究し、石膏型による成型法、水金(みずきん 陶磁器表面の金彩色に用いる上絵付け絵の具)、テレビン油などの顔料や釉薬の技術を身につけて帰国しました。後に、彼らの多くは「円中組」にも関わることになりました。

明治9年(1876)、孫平自身がフィラデルフィア万国博覧会に出向いて、陶磁器、銅器、漆器、生絲、製茶などの販路拡張に努め、このとき、孫平は納富介次郎と出会いました。介次郎の唱える「富国の道は貿易にあり」に大いに感銘し、その影響を最も大きく受けて、欧米向けの九谷焼を制作することに努めました。その後、孫平が九谷焼の輸出に目を向け、“ジャパンクタニ”を世界へ発信することに尽力することになったのは、納富介次郎とのこのときの出会いがあったからといわれます。

“円中組製の九谷焼”は、納富の技術的指導を得て、細密で金色を多く用いた豪華なものとの定評が生まれ、欧米で“ジャパンクタニ”として高い評価を得ました。外国人の眼で輸出品の選別をさせたりするなど、率先して海外貿易の発展に努め、石川県の各種産業の向上発展のために大きな功績を残しました。孫平の信念は「良品を作り、外国で売るのは日本のため」というものでした。

打田平太郎商店

慶応元年(1865年)~現在

打田平太郎商店は、江戸末期、再興九谷の窯が次々と開かれる中、九谷焼が加賀地方の産業として根付き始めた頃の慶応元年(1865年)に小松で陶器商を創業しました。

同店が小松で創業して以来、「金沢の鏑木、小松の打田」と言われるほど、有名な陶器商でした。他の陶器商人と同じく、名工の製品を輸出することに力を入れ、神戸に支店を設けたこともありましたが、輸出が衰えると、国内に支店をおいて国内市場の開拓に力を入れました。

現在も、小松市内で一番古い九谷焼を扱う商店として営業を続けています。

初代 織田甚三 織田甚三商店

初代 織田甚三  弘化3年(1846)生、大正4年(1915)歿

織田甚三 商店  明治18年(1885)ー大正12年(1923)頃

初代 織田甚三は、早くから九谷焼の陶器商人を志し、ついに寺井でも規模の大きな陶器商人の一人になりました。小松の松山新助が明治3年(1870)頃から作り始めた「庄三風」の九谷焼を綿谷平兵衛、筒井彦次、酢屋久平、綿野吉二らとともに輸出に力を入れました。明治18年(1885)、織田甚三商店を開き、横浜にも支店を設け、九谷焼の輸出が盛んな機運に乗って業績を上げました。

特に、横浜支店では欧米からの極薄でしかも丈夫な日用品輸出への需要の強さを感じ取り、同じ陶器商人の綿野安太郎らとともに、その販売に注力しました。それが、“卵殻手(らんかくで エッグシェル)”と呼ばれた極薄の磁器でした。

しかしながら、大正12年(1923)、関東大震災によって横浜支店が大打撃を受けて、神戸に転進して再起を図る努力を続けましたが、これまでの勢いが見られなくなりました。

鏑木商舗

文政5年(1822)~

鏑木商舗は、文政5年(1822)、初代 鏑木次助によって金沢で九谷焼を取り扱う最初の店舗として開業されました。当時の状況は、加賀藩の意向で九谷焼の再興、普及が推進され、若杉窯(文化8年1811開窯)や小野窯(文政2年1819開窯)が操業し、商舗が開業した年には民山窯が開かれ、2年後には吉田屋窯が開かれるなど、再興九谷の諸窯が現われていました。

初代 鏑木次助が商舗を軌道に乗せた後、二代 太兵衛は、商舗の経営を発展させることに努め、自家工房に陶画工を集めて絵付した完成品のみならず、民山窯の一部の商品も販売しました。

三代 太兵衛は、安政5年(1858)に、加賀藩からの諭示(通達)に従い、自家の絵付工場で完成品を作り、不足の時には能美産の製品仕入れました。例えば、小野山陶器所(小野窯)の記録によれば、安政6年(1859)2月に、鏑木商舗が小皿、向付、徳利と猪口、湯呑と急須、菓子鉢、摺り鉢などの鉢類、片口などの日常生活用品を購入したことが記録されています。

四代 太兵衛は、慶応3年(1867)、九谷焼の輸出の機運が高まったと見て、他の陶器商人と連携し、神戸から九谷焼の輸出を始めました。内海吉造を始め、民山窯の優れた陶画工を集め、自家の絵付工場にて、若杉窯や小野窯から買い入れた素地に絵付をしました。生産体制が出来上がり、増え続ける需要に応えるため、金沢のみならず、大聖寺、小松、寺井など県下全域からも良品を仕入れ、また阿部碧海、内海吉造、九谷庄三、松本佐平などの名工らに制作を依頼しました。

鏑木商舗の製品は必ず優れた陶画工に制作を依頼されましたが、ほとんどの場合、“鏑木”の銘で(名工の銘を入れた製品は少なく)、高品質の製品を販売し、“鏑木ブランド”の構築に努めました。現に「鏑木製」、「鏑木造」、「鏑木謹製」らの製品は“鏑木ブランド”だけあって内外で高い名声を得ました。

酢屋久平 清雪堂

生歿年不明

酢屋 久平は、小松の代々続いていた酢の製造業の傍らに、文久元年(1861)、小松木江に窯を築いて製陶業を始めました。しかし、収支がともなわず廃業しましたが、慶応元年(1865)、肥前、尾張などから陶磁器を仕入れて陶磁器の販売を始めました。

明治10年(1877)以降、九谷焼も取り扱うようになりました。九谷焼の販売促進のために、明治13年、小松での博覧会を機に、粗製乱造の弊害を改めようと、松本佐平、数人の陶器商人らと協力して品質の向上に努力しました。さらに、明治15年(1882)、納富介次郎の意見を聞いて、陶業同盟を結ぼうとした首唱者の一人となりました。

明治16年(1883)、神戸の外国商館へ売込みおよび直輸出のため、店舗を設け、自ら神戸に移りました。

谷口金陽堂

明治8年(1875)~昭和32年(1957)

谷口金陽堂は、明治8年(1875)、金沢で初代 谷口吉次郎によって九谷焼の店舗として開業されました。他の陶器商人よりかなり遅れて、明治28年(1896)に神戸に支店が設け、輸出に力を入れました。

特に、小松の松本佐平・佐太郎親子を招聘したことが谷口金陽堂の業績を拡充させました。佐平の経営していた松雲堂が、明治30年代の経済恐慌の影響を受けて陶磁器産業にもたらされた不況のため、明治36年(1903)に倒産したとき、初代は、親しくしていた松本佐平・佐太郎の親子に支援の手を差しのべ、谷口金陽堂に招き入れました。これによって、佐平は銘「金陽堂佐瓶造」の作品を谷口金陽堂で制作することを晩年まで続けられ、また佐太郎は谷口金陽堂の経営に参画することになりました。

二代 吉蔵は、なおも、事業を進め、明治41年(1908)以降、たびたび、欧米各国、満州、韓国などを往来して九谷焼の販路拡張に努めました。こうして、松本佐平・佐太郎の親子を通して、谷口金陽堂は、明治43年(1910)、石川県よりイタリア万国博覧会への出品を委託されるなど、九谷焼の名声を上げることに貢献しました。

松勘商店

慶応元年(1865)~昭和20年(1945)

松勘商店は、慶応元年(1865)、初代 松原勘四郎によって金沢で開業されました。小野山陶器所(小野窯)の記録によれば、それ以前の万延元年(1860)、兄 勘兵衛の名で素地を買い入れたと記録があり、すでに自家製品を扱う陶器商を営んでいたといわれます。
勘四郎は、当初、九谷焼の輸出に力を注ぎ、明治8年(1875)、横浜に支店を設けてから、松勘商店の業績は上がりました。その後、事業は拡張し、松原勘四郎は明治期の金沢豪商の一人となりました。ところが、明治28年(1895)以降、九谷焼の輸出が不振になったので、国内へ販路を変えました。昭和に入ってから、小松衛生陶器も取り扱いましたが、戦後、九谷焼卸商を廃業しました。
商品の製造は、素地を購入してきて、自家においた陶画工から上絵付けした完成品を買い上げる方法でおこなわれました。素地は、主として寺井村湯谷の中口長次窯、国府村の小坂次郎松窯から仕入れ、絵付は、自邸内の給付工場で主任1人に10人余りの陶画工がおこない、高級品などの絵付は、若村泰山、竹田有恒ら3人程の画工に依頼したといわれます。
裏銘は「松原製」「九谷松原製」「大日本松原製」などでした。

綿野吉二 綿野吉二商店

綿野 吉二  安政6年(1859)生、昭和9年(1934)歿

綿野吉二は、明治10年(1877)、父 綿野 源右衛門の跡を継ぎ、明治12年(1879)にはパリに九谷焼の直輸出を試み、翌年、横浜に支店を設けるなど、販路拡張に努めました。また、京浜地区の同業仲間とともに日本貿易協会を設立し、明治15年(1882)には陶商同盟の頭取となりました。

綿野吉二の貢献は、陶器商人が買弁(外国の貿易業者の仲立ちをする者)を通さず、直輸出をすることを実現させたことです。後に第一高等学校(東京大学)校長となった加賀藩出身の今村 有隣の留学の経験や西洋の経済知識を生かして、フランスへの直輸出の道を開くとともに、パリを拠点とするヨーロッパへの直輸出を開拓したことです。

そして、もう一つの貢献は、粗製乱造の商品が現れはじめた明治15年(1882)、綿野 吉二らの努力で、陶磁器技術の革新の第一人者 納富介次郎が説いた“生産地のあり方”についての意見をとり入れ、能美郡の九谷業界を同盟規約でまとめ、その後に相ついで発足した、九谷陶器商同盟会、窯元同盟会、陶画工同盟会などが一体となって、業界の問題に対処する体制を作ったことでした。こうして、輸出見本の製作、上絵の徒弟試験の導入、共同窯での統一製品の製作などが実施されたことから、画風が刷新され、輸出が一段と伸びました。

さらに、綿野吉二は、明治20年(1887)、欧米から求められた品質の高い製品を作るために、自邸に錦窯数基を築き、それを「天籟堂」(てんらいどう)と称しました。そこには小松から石山 文吉、佐々木 梅松、山上 佐吉などが招かれ貿易九谷の絵付をしました。さらに、明治22年には金沢から津田九憐、柏 華渓、村田 甚太郎、窪田南山、平松 時太郎、田辺渓泉などが寺井に招かれ、九谷焼の優品が作られました。その主なものは、高さ1.5mの花瓶、直径90cmに及ぶ大香炉、壷などで、貿易品として盛んに輸出されました。

綿野 安兵衛

生歿年不明

綿野安兵衛(以下、綿安という)は、寺井の綿野源右衛門・吉二、織田甚三、井出 又右衛門ら陶器商人とともに、明治3年(1870)に松原新助が小松八幡に洋式の素地窯を築いたことでできた産業基盤の下で、規格品である素地の上に洋絵の具で着画した製品を生産するようになりました。

明治初期の輸出九谷が制作に1~3ヶ月も要する、高価な大皿、大香炉、ランプ台に転用された4尺前後(約1.5m)の大きな花瓶などの装飾品でしたが、綿安らは、欧米から求められた丈夫なテーブルウエアなどの比較的小型の九谷焼を多く輸出しました。綿安は、明治18年(1886)、横浜に支店を出して、居留地に設けられた外国商館や外国人にテーブルウエアを売り込みました。カップとソーサーのセット、肉皿などの食器類に重点を置きました。

一方で、横浜では地場(横浜焼と呼んだ)の業者も含めた多くの製造所と競合していたため、差別化を図るため、かつて海外の万博で高く評価された極薄手のテーブルウエアを重点に輸出しました。再び、欧米人が横浜で生産された卵殻手ものを手にした時に、その軽さと美しさに驚きをもって迎えられたといいます。

綿谷平八・平兵衛

綿谷 平八 天保8年(1837)生、明治18年(1883)歿

綿谷平八は、安政5年(1858)、22歳のとき、寺井で父の家業を継いで陶器商人となりました。江戸の末期、小松の行商人が各地へ副業的に九谷焼を販売したのが能美地方における九谷焼の県外販売の始まりで。当時、寺井では九谷庄三ら名工が多く、九谷焼が産業九谷として確立しようとしていたので、綿谷も京都、大阪、岡山、肥前へ出向いて販路の拡大に励みました。そして、万延元年(1860)、自宅に絵付工場を建て、吉田屋風、赤絵、彩色金襴手、有田風、錦手などを制作し、江戸にまで出向いて販売しました。

明治2年(1869)、実兄 平四郎、若杉 弥助、九谷市松らを瀬戸、美濃、有田に派遣し、それぞれの製法を視察させました。翌年、弥助が長崎から酸化コバルトを、市松が絵付用の洋絵の具を持ち帰り、それらをもって美麗な製品を作り、内外に販売したところ好評を得ました。その結果、明治6年(1873)のウイーン万国博覧会、明治9年(1876)のフィラデルフィア万国博覧会に自家製品を出品して名声を得ることができました。

綿谷 平兵衛 元治元年(1864)生、大正10年(1921)歿

綿谷平兵衛は、綿谷平八の子で、明治15年(1882)、横浜に支店を出し、九谷焼の貿易商として各国と盛んに貿易し、国産である九谷焼の真価を内外に高めることに努めました。

特に、九谷焼と並べて香々焼(詳細不明)と称する新陶器を創作し、国内は言うまでもなく、スペイン、アメリカ(シカゴ)、ポーランド、ベルギーなどの万国博覧会で、金・銀牌を受賞しました。

一方で、明治39年(1906)、井出善太郎、石崎蕃らと九谷原石破砕会社を設立し、明治41年(1908)から寺井町湯谷で操業を始め、九谷焼の産業基盤を築くのに貢献しました。