明治時代に石川県外の技術者、日本画家などが九谷焼生産の工業近代化、意匠・図案の質的向上などを図るため招聘されました。彼らが地元の陶工と陶画工のそれぞれの製作活動を指導し支えたことから、明治九谷は美術工芸品としてまた磁器製品として国内外で高く評価されるようになりました。代表的な指導者は次の3名です。
納富介次郎 | ゴットフリード・ワグネル | 荒木探令 |
納富介次郎
弘化元年(1844)生、大正7年(1918)歿
納富介次郎は、弘化元年(1844)、佐賀県に生まれ、幼少の頃から絵画が上手でした。文久2年(1862)、鍋島藩主の命で、土佐の岩崎弥太郎らと共に支那に渡って、清王朝を中心とした国際情勢について視察して「富国の道は貿易にあり」との考えをもって帰国しました。明治4年(1871)、27歳のとき、横浜で貿易業を研究し欧米視察の必要さを痛感し、そのかたわらで油絵を学びました。
明治6年(1873年)のウィーン万国博覧会で政府随員として渡欧し、ゴットフリード・ワグネルの斡旋によりオーストリア帝国ボヘミアのエルボーゲン製陶所で伝習生として陶磁器の製造を学びました。さらに、フランスのセーブル製陶所を見学した後、明治8年(1875年)に帰国しました。この渡欧を通じて一品制作による美術品の輸出には限界があり、工芸品の量産体制を整えることが日本の貿易収支改善のために重要なことを認識し、工業・工芸学校の創立など後に教育活動に携わる契機となりました。また、科学技術を応用して需要に応えた製品を作ることが重要であることを学びました。(「ウィーン万博紀要」の中で述べています)
明治9年(1876年)のフィラデルフィア万博では、専任審査官として出品審査を行うとともに、自らデザインした陶磁器なども出品しました。これは有田など産地の職人から、海外向けの作品を作るにあたって図案を示して欲しいとの要望が政府にあったためといわれます。なお、英語の「Design」(デザイン)を「図案」と翻訳したのは納富であると言われます。帰国後の明治10年(1877年)に塩田真とともに江戸川製陶所を設立する(7年後に閉鎖される)など、この時期に石鹸、漆器、銅器を製作する実験的事業を幅広く手掛けました。
明治16年(1883年)に石川県に招かれて陶器や漆器の製造を指導し、中国への輸出を勧めるなどした。翌々年に再び招かれ、一年間技術指導を行い、絵画品評会の審査長なども務めました。これらの金沢滞在時には、工芸品の生産体制の協同・効率化を特に提言しており、同業者組合の設立や物流の効率化を進めている。
明治18年(1885年)金沢工業学校(現・石川県立工業高等学校)の設立を県に働きかけ、明治20年(1887年)に学校が創立されるとその初代校長となりました。専門画学部、美術工芸部、普通工芸部の3部が設けられており、日本初の中等実業教育機関であり、最初に「工業学校」を名乗った学校でした。3年9ヶ月の在職の後、明治27年(1894年)に富山県工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)を創立し、同じく初代校長となり3年以上勤務しました。ここでは仏壇や高岡銅器の生産が盛んな現地の環境を踏まえ、木材彫刻、金属彫刻、鋳銅、髹漆の4科を設けました。
続いて明治31年(1898年)には香川県工芸学校(現・香川県立高松工芸高等学校)を創立し、ここでも3年以上にわたって初代校長を務め、木工部と金工部を置きました。この後、明治34年(1898年)に郷里の佐賀県立工業学校(現・佐賀県立佐賀工業高等学校)の2代目校長として就き、同校の分校だった佐賀県立有田工業学校(現・佐賀県立有田工業高等学校)を明治36年(1903年)に独立開校させました。
九谷焼との関わり
納富介次郎は、九谷焼の産業を機械化による量産という視点でとらえたのではなく,素地作り・絵付の生産工程の分業化によって美術工芸品を量産することを唱え,そのためには修得していた築窯や石膏型成形の技術を九谷焼の生産工程に導入して良質な素地の生産をするように指導し、納富が創設に尽くした工業学校での意匠・図案教育による製品の質的向上とその人材育成を図りました。納富介次郎は、ドクトル・ワグネルなどと同様に、石川県に産業振興の指導者として、九谷焼の陶画工を養成し、上絵の技法や画風を改良することに大きな功績を残しました。そのいくつかの事例は次のとおりです。
明治9年(1876)、農商務省巡回技術指導者として石川県から招かれ一年間滞在しました。その間、円中孫平は、納富と出会い、納富の唱える「富国の道は貿易にあり」に大いに感銘し、その影響を最も大きく受けたといわれます。そこで、欧米向けの九谷焼を制作することに努めた結果、“円中組製の九谷焼”は細密で金色を多く用いた豪華なものであったことから、欧米では“ジャパンクタニ“と高い評価を得ました。
明治10年、納富介次郎が製陶の技術や石膏型の用法をより十分に実際に応用できる程の技能を身に着けさせることを目指し、東京・江戸川製陶所を建てたとき、石川県から伝習生として派遣された松田与八郎ら新旧生徒をそこに収容し、それらの技術を教授しました。その後、松田がそうした技術を県内に広める契機となりました。
明治16年(1883年)、石川県に招かれて陶器や漆器の製造を指導し、中国への輸出を勧めました。そのとき、小寺藤兵衛は納富介次郎について陶画と図案を研究し、また友田安清は着画の新法を習いました。
明治18年(1885)、納富介次郎は、再び招かれ、一年間にわたり、技術指導を行い、絵画品評会の審査長なども務めました。滞在時には、工芸品の生産体制の協同・効率化を提言しており、同業者組合の設立や物流の効率化を進めました。金沢の描金(蒔絵)、彫金、木彫の図案改良、小松物産陳列所や山代製陶場や山中漆器の改善なども手掛けました。
明治20年、納富介次郎は、我が国初めての工業学校 金沢区工業学校の初代校長になりました。その前年に、長年の構想であった工業学校の創立を申し出ていたことが実現しました。その年、陶磁器製造工程の近代化を進めるため、松本佐平と「九谷陶画分業工場」を設置し、作業内容を分業化しました。さらに、八幡村陶器試験場の創立、フランス式竪窯を松原新助と共に築き、石炭を使用した高温焼成を可能にして堅牢な素地が製作きるようにし、ドイツ式ロクロの導入を図りました。また、新助と共に共同水車設置の意見を述べ、これが郡に受け入れられました。また、沢田南久、亀田山月、橋田与三郎らに陶画の技術指導を行いました。
明治22年ころ、二代利岡光仙は納富介次郎から修得した製陶の新しい方法を生かして素地窯を新設した。
明治25年(1883)、陶器商人の筒井彦次は納富介次郎の工芸策に参画して、図案の向上を図り、特に、安達正太郎をとおして石川工芸の向上に貢献しました。
ゴットフリード・ワグネル
1831年- 1892年
ゴットフリード・ワグネルはドイツ出身のお雇い外国人として各種事業参加のため来日し、その後、政府に雇われた珍しい経緯を持っています。京都府立医学校(現・京都府立医科大学)、東京大学教師、および東京職工学校(現・東京工業大学)で教授を務めるなど、明治時代に日本の工学教育において大きな功績を残しました。
窯業(陶磁器・七宝・ガラス)との関わり
ワグネルはドイツで学んだ化学の知識を基に日本の窯業に深く関わりました。明治3年(1870)、佐賀藩に雇われ、有田での窯業指導(石炭窯、コバルト、洋絵の具などの導入)によって有田焼の近代化に先鞭を付けました。
その年から明治15年(1881)まで京都で、永樂和全の協力を得て陶磁器、七宝、ガラスの製法などを指導しました。陶磁器については、薪と石炭の双方を燃料とし、火熱を2段階に利用して第1段で本焼成、第2段で素焼きのできる新式の陶器焼成窯を発明し、耐火煉瓦を用いて焼成窯を新造しました。その間に七宝の研究に専念しており、その成果を譲り受けた七宝会社が明治15年(1881)の第2回内国勧業博覧会で名誉賞を受賞しています。それまでの七宝の不透明釉に替わる透明釉を開発し、京都の七宝に鮮明な色彩を導入しました。
これらの経験を経て、明治17年(1883)から新しい陶器を研究し、旭焼を開発しました。旭焼は、それまでの陶磁器が主に釉薬をかけて本焼成した後に絵付を行い再度焼成していたのに対し、先に絵付を行ってから釉薬をかけて焼成する釉下彩と呼ばれる手法で作られました。これにより陶磁器の貫入や歪みを嫌うヨーロッパの嗜好に合った製品が作られると、明治23年(1890)には渋沢栄一らの出資で旭焼組合が設立され、ストーブ飾タイルなどが輸出されました。しかし、コストが高かったことなどから、ワグネル没後の1896年に組合は解散し終了しました。なお、渋沢栄一らによって設立された「大日本東京深川区東元町旭焼製造所」は「旭焼陶磁器窯跡」として江東区の史跡となっています。
九谷焼との関わり
ドクトル・ワグネルは、納富介次郎とともに、磁器生産の優れた指導者として石川県(金沢市)から招かれ、絵付の技術や顔料の研究が他の地方よりも早く進みました。また、石川県がウィーン万博、フィラデルフィア万博に参加する際、ワグネルによって出品物の調整陳列ができ、文物を海外に紹介するなど、産業九谷の発展に尽くしました。
明治17年(1884)ワグネルは農商務省雇い技師としてこの年初めて来県しました。その際に、沢田南久はワグネルから築窯法の指導を受け、和絵の具改良に関しても指導を受けました。これがもとで、その後、長きにわたり使われることになった和絵の具の基礎を開発できました。そして、中川二作は陶画の指導を受けその研究に励みました。
明治18年(1885)、竹内吟秋は、東京小石川製陶所で加藤友太郎、植田豊橘、ワグネルに学びました。その年、友田安清は東京で製陶法及び顔料調整法をワグネルから学び、翌年には東京職工学校で、無機化学、陶磁器製造法を学びました。納富介次郎に西洋式顔料着画法を、ドクトル・ワグネルに製陶法と顔料調合法を学んだ後、明治18年ころから陶磁器顔料の改良に没頭しました。
明治22年(1889)、春名繫春は東京職工学校に模範工として招聘されてから明治35年の東京高等工科学校時代までの間、ワグネルの旭焼を助けました。
荒木探令(狩野探令)
安政5年(1858)生、昭和6年(1931)没
荒木探令は現在の山形県新庄市に生まれました。10歳の時に地元の絵師・菊川淵真に絵の手ほどきを受け、18歳で上京、鍛冶橋狩野家の狩野探美に師事して狩野派の画法を学び、明治18年(1885)、26歳で探令の号を許されました。この頃、東京工業学校(現東京工業大学)のゴットフリード・ワグネルから工芸美術の指導を受け、テレビン油描法を江戸川製陶所の納富介次郎に学んでいたこともあり、新製陶器(旭焼)の研究試作を手伝い、陶器の絵付も手がけるようになりました。探令は、ワグネルの専属画家として絵付けを手伝いながら、石川県で九谷陶画の向上のために指導者として陶画の筆法を教えました。
絵画制作においても、日本美術協会の絵画研究会で月番幹事をつとめて研鑽に励みました。明治31年(1898)には日本画会の創立に参加し、明治40年(1907)には「正派同志会」を結成し幹事となるなど、精力的に活動しました。
探令は、生涯を通じて狩野派の研究と復興に力を注ぎ、常に狩野派の伝統的筆法を用いて描き続け、それは陶磁器の絵付においても活かされました。大正2年(1913)には、岡本秋水、平林探溟、狩野忠信らと「狩野会」を組織し、大正5年(1916)に宗家より一代限りの狩野姓を授けられ、晩年は「狩野探令」を名乗りました。
九谷焼との関わり
明治19年(1886)ころ、能美郡役所は、相次ぐ内外博覧会への出品ために、納富介次郎と共に講師として県立工業学校の図案教師だった荒木探令を招いて画材の選択から図案の構成、彩色と金銀さしと九谷焼絵付の見直し研究を行いました。そのとき、亀田山月、橋田与三郎は荒木探令から陶画図案や顔料使用法の研究など修得しました。
明治21年(1888)、能美郡役所と勧業課と九谷焼同業組合との協議によって、九谷焼図案の改良のため、東京から山本光一、木村立峰らと共に講師として招かれ、沢田南久、亀田山月、橋田与三郎らが画法を修得し、画風が大いに改良されたといわれます。同時に開かれた幼年・初心者の部の講習を初代徳田八十吉(15歳)が受け、初代米田五三郎(年齢不詳 元々陶器商人でしたが陶画工を志した)もいたといわれます。