“人に技術がついて行く”のとおり、明治時代に活躍した陶工と陶画工は、本多貞吉、粟生屋源右衛門、斉田伊三郎(道開)、九谷庄三、松屋菊三郎、さらに、彼らの門弟によって築かれた陶法を受け継いだ陶工であり陶画工でした。
明治九谷の歴史 能美・小松地方の陶工
江戸末期から明治初めにかけて、斉田伊三郎と九谷庄三による「素地作り」と「絵付」の分業化が進む中、大量で良質の素地が製作するため、小松市八幡、埴田などを中心に素地土を専門的に精製する工場であった「泥屋」あるいは「水簸(すいひ)屋」に始まり、その素地土を使って素地を成形し釉薬をかけて焼成までする「素地窯」が次々に現れ、その窯元で多くの陶工が活躍しました。(続く「明治九谷の歴史 能美・小松の陶工」)
明治九谷の歴史 能美・小松地方の陶画工
早くから、現在の佐野町、寺井町、小松市など広範囲にわたって、豊富で良質な素地の産地であったので、斎田伊三郎、九谷庄三、松本佐平の門弟、あるいは独自の陶法を築いた陶画工などが盛んに明治九谷の名品を製作しました。明治18年(1885)ころ、能美地方だけで専業陶画工が67人、兼業陶画工が21人いたといわれ、一定しないものの、明治30年代から40年代にかけての数は300人前後に増加したといわれます。
斎田伊三郎の門弟たち |
亀多山月/道本七郎右衛門/橋田与三郎/西本源平/富田松鶴/三輪鶴松/東文吉 |
九谷庄三の門弟たち |
武腰善平/中川二作/本多源右衛門/中野忠次/二代武腰善平/武腰泰山 |
松本佐平とその門弟たち |
松本佐平/宮川永福/秋山駒次郎/松本佐吉/徳田八十吉 |
独自の陶法を築いた陶画工 |
石田聚精/小酒磯右衝門/沢田南久/川尻七兵衛/八木甚作/石田一郷/福山虎松/笠間竹雪/畑谷関山/越田雪山/高田嶺山/森久松/島崎玉香/小田清山/米田五三郎 |
明治九谷の歴史 金沢の陶工
金沢では、江戸末期に春日山窯の周辺に陶窯が築かれ、陶器類を製作していましたが、明治に入ると、金沢市(石川県)の支援によって石川県の産物に関する開発のために試験場(勧業試験場)が開設され、その中に陶工、陶画工などを教育する素地窯が築かれました。やがて初期の目的が達成され、試験場は閉鎖されると、その素地窯は民間の窯となって再稼働し、良質な素地を供給する窯となりました。その後、新しい素地窯も築かれました。(続く「金沢の陶工」)
明治九谷の歴史 金沢の陶画工
金沢では、明治初期、民山窯の元陶画工に加え、加賀藩の御抱絵師やその流れを汲む絵心ある藩士などが廃藩後に直接間接に金沢九谷の絵付に大きく関わりを持ったことから、多くの陶画工が華やかに活動しました。さらに、名工に養成された陶画工、店舗(工房)を構えた陶画工、独自に絵付技法や絵の具を開発した陶画工など、ほかの地方にはない多彩さがありました。
ですから、金沢で活躍した陶画工は、明治初期において、(1)阿部碧海窯で陶器商人の注文品を絵付する絵付工場で専属画工として働いた者、(2)鏑木商舗、松堪商店、谷口金陽堂などのような陶器商人の経営する絵付工場で専属画工として働いた者、(3)清水美山堂のように注文に応じて自家で絵付をした者など、大きく三つに分けられましたが、明治中頃から、(2)及び(3)のタイプの陶画工に集約されていきました。
金沢の陶画工 ≪明治初期≫ |
阿部碧海/内海吉造/任田徳次/山田久録/小寺椿山/春名繁春/笹田友山/清水清閑/飯山華亭/柏 華渓/岩波玉山/赤丸雪山/笠間秀石/宮荘一藤/和沢含山 |
金沢の陶画工 ≪明治中期≫ |
竹内安久/清水美山/松岡初二/八田逸山/野村善吉 |
金沢の陶画工 ≪明治後期~大正≫ |
石野竜山/友田安清/大桑右霞/水田生山/田辺渓泉/相川雪花/窪田南山/高橋北山/若村泰山/安達陶仙/小田清山/丸岡儀八郎/柳田素山/三階湖山 |
明治九谷の歴史 江沼地方の陶工
江沼地方には江戸末期に吉田屋窯、宮本屋窯、松山窯、九谷本窯が開かれ、そこで修業した陶工が独立して素地窯を築きました。彼らは粟生屋源右衛門、松屋菊三郎から製陶を修得した陶工でした。彼らは、窯元から独立して絵付業を開いた陶画工、あるいは陶器商人に素地を供給しました。寺井、小松から離れていたので、山代を中心に活躍しました。やがて、彼らの中から絵付も行う陶工が出てきました。中には、小規模な窯元でありながら、現在まで九谷焼を作り続けるところもあります。(続く「江沼地方の陶工」)
明治九谷の歴史 江沼地方の陶画工
江沼地方では、江戸末期に吉田屋窯、宮本屋窯、松山窯が開かれたこともあり、明治時代に入ってからも、いくつかの小規模な窯元が九谷焼を製作した一方で、陶器商人の専属になった陶画工、窯元から独立した陶画工も活躍しました。ただ、全体としては、金沢、能美地方に比べその人数は多くなかったといわれます。(続く「江沼地方の陶画工」)