明治九谷の歴史 江沼地方の陶工

中小路七蔵/山本庄右衛門/東野惣次郎/北出宇与門/北出亀吉/大蔵清七(後の大蔵寿楽)/塚谷竹軒/松田与八郎/松田半与門/塚谷六三郎/浜坂清五郎/大蔵窯工人数名/大蔵庄次郎/大蔵寅吉/大蔵亀吉/戸崎勘三郎
 

江沼地方には江戸末期に吉田屋窯、宮本屋窯、松山窯、九谷本窯が開かれ、そこで修業した陶工が独立して素地窯を築きました。彼らは粟生屋源右衛門松屋菊三郎から製陶を修得した陶工でした。彼らは、窯元から独立して絵付業を開いた陶画工、あるいは陶器商人に素地を供給しました。寺井、小松から離れていたので、山代を中心に活躍しました。やがて、彼らの中から絵付も行う陶工が出てきました。中には、小規模な窯元でありながら、現在まで九谷焼を作り続けるところもあります。

慶応年間(1865~1867)平床窯 

中小路七蔵(天保14年(1843)生)は、蓮代寺窯で製陶の技術を粟生屋源右衛門松屋菊三郎から修得しました。同窯が閉窯した後、慶応年間に大聖寺町郊外の平床(後の福田村極楽寺三俣の平床)で本窯を開き、白素地を大聖寺、山代の陶画工らに供給し、自らは染付の日用品を製作販売しました。

門弟に大蔵寅吉東野惣次郎、本谷半与門(後の松田半与門)など、後の名工となる陶工がいました。

勅使窯 

慶応2年(1866)~明治9年(1876)

山本庄右衛門は、東野惣次郎と共に、松山窯、平床窯で技能を身につけた後、慶応2年(1866)、勅使村に勅使窯を共同で築きました。明治9年(1876)、東野がこの窯を受け継ぎ、今日も東野窯として操業を続けています。

東野窯 

明治9年(1876)~現在

初代 東野惣次郎は、松山窯で製陶の技術を粟生屋源右衛門松屋菊三郎山本彦左衛門から指導を受け、その後、平床窯で技能を積んで、勅使窯を山本庄右衛門と共に開窯した後、明治9年(1876)、その窯を受け継ぎました。登り窯数基が勅使村法皇山に築かれ、常時十名前後の職人を雇って盛んに製陶が行なわれ、現在に至っています。

初代は粟生屋源右衛門松屋菊三郎の指導を受け、陶画にも秀でていたので、染付を施した製品にも注文が多かったといわれます。

ロクロ師には、勅使窯から薮下庄太郎、平野惣次郎、東野清三、南 作二らが移り、その他に能美、小松からの数名が集まりました。染付工には三代 上出喜山がいました。

北出窯(青泉窯) 

明治元年(1868)~現在

北出窯は、明治元年(1868)、初代 宇与門により加賀市栄谷の地に興された窯元で、 明治・大正期を通じ、江沼九谷の名声を大いに高めることに功績がありました。三代 塔次郎のとき、素地・絵付の一貫作業の工房として歩み始め、青泉窯と名を改め、現在に至っています。

初代 北出宇与門   嘉永6年(1853)生、昭和3年(1928)歿

宇与門は、栄谷の谷口磯次郎の三男として生まれ、松山窯で粟生屋源右衛門松屋菊三郎山本彦左衛門から製陶を学びました。北出家へ養子に入り、明治元年、15才の若さで栄谷の牛ケ谷で開窯しました。

ロクロに秀れた技能を有し、また型成形をして、白素地を作り、染付による絵付も得意でした。窯元として素地と染付を生産し、卸販売をしましたが、卓絶した製品を作ったので、注文が殺到したといわれます。小松の宮本商店、大聖寺の陶器商人 井上商店などの販売先を持ち、作家の依頼を受けて展覧会用の素地作りもしました。

二代 北出亀吉   明治21年(1888)生、昭和5年(1930)歿

亀吉は、宇与門の三男として生まれ、先代から製陶、染付を修得しました。そのため、先代と同じく、白素地と染付を製造、販売しました。大正から昭和の初期にかけての職人は10数人に及んだといわれます。この中に絵付工もいたことから、すでに絵付を始めていたようです。ロクロ師に、西出仁三郎、西野仁太郎、中出清八、中川庄八、二代 滝口加全、西野与四松、西出金太郎がいて、染付工と上絵付工に、河野定吉、上出喜平、桶谷亀次郎、上出三次郎、桑野力吉、桑野栄次郎がいたといわれます。

三代 北出塔次郎

三代 塔次郎のとき、素地、絵付一貫作業の工房として歩み始めました。現在の青泉窯の名称は、昭和11年の秋、この窯に滞在して色絵の研究に打ち込んだ富本憲吉により命名されました。

昭和初期より日展などで活躍し、金沢美術工芸大学教授を務め、多くの後進を育成しました。

四代 北出不二雄

不二雄は、塔次郎の跡を継ぎ、日展中心に制作活動を進め、色絵の他、彩釉陶器を工夫し、両方を併行して作陶しました。

九谷本窯 

明治3年(1870)~明治12年(187)

九谷本窯は、江戸末期に永楽和全によって数々の優品が産み出された評判の高い窯元で、当時、「永楽窯」と呼ばれました。素地作りも永楽によって指導され、良質な素地がつかられたことが永楽の作品からもわかります。大倉清七(後の大蔵寿楽)もその一人でした。

しかしながら、和全が去った後、明治3年(1870)に民営化されたものの、振るわなかったため、明治4年(1871)、塚谷竹軒と大蔵清七が譲り受けて再建に努めましたが、経営状態が好転しなかったので、明治12年(1879)に九谷陶器会社に引き継がれました。

ただ、この窯の10年あまりの間に製作された作品を見ると、素地も絵付も質の高いものが多くありました。例えば、大蔵清七は明治5年(1872)にアメリカの大博覧会に出品し、塚谷竹軒は明治10年(1877)の第一回内国展覧会に九谷焼の磁器、急須合わせて5点を出品し、急須茶碗が優れていたことで褒状を受けました。

塚谷竹軒 文政9年(1828)生、明治26年(1893)歿

塚谷竹軒は、大聖寺藩士の家に生まれました。祖父は古九谷の研究資料としてよく引用される「茇憩紀聞」の著者である塚谷沢右衛門でした。

竹軒は藩の産物方(特産物を扱う役所)に属していたことから、大聖寺藩が殖産興業の振興に積極的に取り組み、万延元年(1860)に宮本屋窯を藩営とすることにしました。藩士の浅井一毫と共に、宮本屋窯を買収し、九谷本窯(永楽窯)として窯元を興しました。

この窯は京の名工 永楽和全を招聘して名品を製作したものの、和全が京に戻り、さらに版籍奉還に伴い陶業そのものが衰微しかかると、今度は大蔵寿楽とともに九谷本窯の再建に努力しました。

蘇川窯

明治5年(1872)~現在

蘇川窯は、明治5年(1872)、二代 松田半与門によって栄谷で開窯されました。初代 松田与八郎もこの窯に関与したといわれます。

初代 松田与八郎   嘉永4年(1851)生、明治20年(1887)歿

松田与八郎は、旧加賀藩士で、金沢区方勧業場の生徒となり、東京の博覧会事務局の実施試験場に派遣されました。明治8年(1875)、博覧会事務局がウィーン万国博覧会に関する知識を伝習させるため、伝習生の一員として派遣され、納富介次郎、河原忠次郎らと共に製陶の技術や石膏型の用法を学んで帰りました。この石膏型の用法は、与八郎が明治10年(1877)に石川県勧業試験場の陶器授業の教師に招かれたとき、この技術を九谷焼で使用することを初めて教授しました。その後、明治17年(1884)、自らが小野村で石膏型製陶器業を始めました。

二代 松田半与門(本谷半与門)   生年不明、昭和7年(1932)没

二代 松田半与門は、初め本谷半与門と名乗り、松山窯で粟生屋源右衛門松屋菊三郎山本彦左衛門らの指導を受け、その後、平床窯で中小路七蔵の指導を受けました。そして、明治5年(1872)、20歳のとき、栄谷で蘇川窯を開窯しました。ところが、明治10年(1877)、納富介次郎が東京牛込新小川町に開設した製陶所で全国各地の陶工を指導したとき、ここに遊学したといわれます。このとき、初代 与三郎と出会いました。そのあとも、福島県、佐賀県、岐阜県の産地の窯や窯業の学校を廻りました。

明治20年(1887)、与八郎が歿したため、松田家を継ぎ、名前を改めました。万国博覧会に出品した機に渡欧しました。帰国後、再び築窯しました(明治5年に開いた窯がどうかは不明です)。その窯は登り窯一基で、素地作りを主体としました。また石膏型を使用した製陶も始めましたが、これが九谷焼の製造で最初に石膏型を使用した製陶業であったといわれます。

九谷陶器会社・陶器本社 

明治12年(1879)~明治33年(1900)

明治12年(1879)、飛鳥井清は、塚谷竹軒大蔵寿楽が再建に取り組んでいた九谷本窯を譲り受けて九谷陶器会社を創立し、本社を大聖寺町に置きました。自ら社長となり、竹軒が支配人に就きました。翌年、竹内吟秋が支配人に任命されて山代の工場(本窯)の運営を任されました。吟秋は、これより先、維新舎を創立して陶画工を養成していましたが、その生徒をひきつれてその職に就き、竹軒の子 塚谷六三郎大蔵寿楽が陶工部長に、吟秋の実弟 浅井一毫が画工部長に就きました。

大蔵寿楽塚谷六三郎浜坂清五郎らは素地の改良に腐心し、吟秋は古九谷の絵の具の研究に、一毫は事業拡張に専心したところ、ようやく事業が緒につきました。金沢から初代 諏訪蘇山を招いたのはその頃でした。

ところが、明治14年(1881)、吟秋、一毫、寿楽、六三郎らが辞してそれぞれ自営の道を選びました。そこで、明治16年(1883)、金沢から須田与三郎(初代 菁華)を招き、主に呉須、古染付、祥瑞などを制作し、隆盛となりました。しかしながら、明治18年(1885)、社運が振るわなかったため、梅田五月が代わって社長になり、清五郎が磁工長に、菁華が画工長に就き、使用工人16~17人を置いて体制を整えると、生産額が伸びました。しかし、衰勢は挽回し切れず、ついに、明治24年(1891)、会社は解散されました。

翌年、山代の永井直衛が本窯を譲り受け、能美上野村の中野忠次郎が支配人となり、社名を九谷陶器本社と改めて操業を続けましたが、明治33年(1900)、大蔵寅吉に譲り渡されました。

大蔵寿楽(清七) 天保7年(1836)生、大正7年(1918)歿

大蔵清七は、江沼郡松山村に生まれ、安政2年(1855)から6ケ年間、松山窯で山本彦左衛門の指導を受けた後、万延元年(1860)、山代の木崎窯に移り、木崎卜什や木崎万亀から陶法を学びました。さらに、慶応2年(1866)、大聖寺藩の招聘を受けて京から九谷本窯に招かれた永楽和全の門弟になりました。後に「寿楽」の号を受けました。

明治4年(1871)、塚谷竹軒と共に、九谷本窯を譲り受け、その再建に尽くしました。翌年にはアメリカの大博覧会に出品したこともありました。明治6年、松山の姓を大蔵に改めました。

明治12年(1879)、九谷陶器会社が設立されると、陶工部長として参画しました。翌年、県の命により有田への視察に行き、帰郷して隣地の弁慶山に有田窯に倣って新窯を築きました。しかし、明治14年(1881)、九谷陶器会社を辞し、大蔵窯を興し自営に専念しました。

塚谷六三郎 文久元年(1861)生、明治33年(1900)歿

塚谷六三郎は、塚谷竹軒の子で、父から製陶を学びました。明治12年(1879)、九谷陶器会社設立に伴い、18歳で、大蔵寿楽とともに陶工部を管理し、陶業に従事しました。「逸良」と号しました。

浜坂清五郎 弘化4年(1847)生、大正2年(1913)歿

浜坂清五郎は、松山窯が廃された文久3年(1863)まで数年間、粟生屋源右衛門松屋菊三郎山本彦左衛門から素地作りの指導を受けました。

明治12年(1879)、32歳のとき、九谷陶器会社に入り、大蔵寿楽塚谷六三郎と共に、素地の改良に努めました。明治18年(1885)、梅田五月が社長に就任すると、磁工長となり、画工長の須田菁華とともに活躍しました。

大蔵窯 

明治14年(1881)~大正7年(1918)

大蔵窯は、明治14年(1881)、九谷陶器会社を辞した大蔵寿楽が山代の弁慶山に始めた窯(後に大蔵寿楽本家の窯と呼びました)でした。明治20年(1887)からは大蔵庄次郎(寿楽の娘婿)が経営にあたりました。

明治30年(1897)1月の庄次郎自筆による大蔵窯の見取り図には、一号窯から第七号窯まであり、錦窯も含めたものか不明ですが、規模が大きかったことがうかがわれます。

製品は、白素地と染付で、染付は良品であったといわれます。工人は数多くいて、この窯で陶画工も養成されました。ロクロには、坂江市松、庄田善太郎、安達久栄、田端幸吉、今森常吉、小西政一、山下一郎、俵甚作、山下次郎、小滝久五郎、松任屋駒吉がいて、染付工には、桶屋亀次郎、大蔵亀吉、幸松乙次郎、幸松幸吉、山田文作、西山捨吉、藤山久一、架場彦四、坂井久、坂江清、笹尾竹松がいました。

大蔵寿楽(清七) 天保7年(1836)生、大正7年(1918)歿

大蔵清七は、江沼郡松山村に生まれ、安政2年(1855)から6ケ年間、松山窯で山本彦左衛門の指導を受けた後、万延元年(1860)、山代の木崎窯に移り、木崎卜什や木崎万亀から陶法を学びました。さらに、慶応2年(1866)、大聖寺藩の招聘を受けて京から九谷本窯に招かれた永楽和全の門下に入りました。このことで、寿楽の号を受けました。

明治4年(1871)、塚谷竹軒と共に、九谷本窯を譲り受け、その再建に尽くしました。翌年にはアメリカの大博覧会に出品したこともありました。明治6年、松山の姓を大蔵に改めました。

明治12年(1879)、九谷陶器会社が設立されると、陶工部長として参画しました。翌年、県の命により有田への視察に行き、帰郷して隣地の弁慶山に有田窯に倣って新窯を築きました。しかし、明治14年(1881)、九谷陶器会社を辞し、大蔵窯を興し、自営に専念しました。

大蔵庄次郎 安政6年(1859)生、昭和5年(1930)歿

大蔵庄次郎は、明治14年(1881)ころから、父 清七の指導を受けつつ、大蔵窯の生産に励み、明治20年(1887)、父 清七が旧平床窯の再興に就いてからは、大蔵寿楽本家の窯を実質的に経営して、この窯の維持発展に努めました。

大蔵寅吉 慶応3年(1867)生、大正13年(1924)歿

大蔵寅吉は、平床窯で中小路七蔵から製陶の技法を修得しました。明治20年(1887)頃から同30年(1897)頃まで、旧平床窯を大蔵清七と共に復興することに力を注ぎました。(その後、この窯は柳沢清市に譲られました)

つぎに、明治33年(1900)から大正8年(1919)まで、大蔵寿楽分家の窯と呼ばれた九谷陶器本社の窯を永井直衛から譲り受けて経営しました。

大蔵亀吉 明治6年(1873)生、昭和10年(1935)歿

大蔵亀吉は、明治25年(1892)、庄次郎家の入婿となり大蔵家に入り、大蔵寿楽本家の窯で染付工として働きました。

大蔵寿楽分家の窯

大蔵寿楽分家の窯は、越中谷の九谷陶器会社の窯で、明治33年(1900)から大正8年(1919)まで大蔵寅吉(寿楽の娘婿)が永井直衛から譲り受けて運営されました。この窯は、吉田屋窯から宮本屋窯、九谷本窯、竹軒と寿楽により再建された九谷本窯、そして九谷陶器会社へと受け継がれた窯でした。

この窯では素地のみを生産し、染付で販売するものは外注しました。工人には、山本仙太郎、北川玉次郎、南出某、小中喜一、山村一郎、山城清三、西野清一、松田清八らがいて、その他に窯の裏方が10人程いました。

大正7年(1918)、大蔵清七が死亡したのに伴い、翌年、本家と分家が合併して、九谷寿楽製陶株式会社が設立され、現在の九谷寿楽窯の地に開業しました。社長に大蔵庄次郎、取締役に大蔵寅吉、島田善作が就任しました。しかし、5年後の大正13年(1924)、業績が上がらず、また寅吉が歿したことから、会社は解散されました。

永寿窯 

明治37年(1904)~現在

永寿窯は、明治37年(1904)、初代 矢口永寿(岩吉)によって山中に築かれました。当初、永楽和全の高弟 滝口加全を招聘して京風の陶磁器を作りました。

翌々年、清水六兵衛の門弟 戸山寒山をも招きました。その他にも能美、金沢から多数の工人を集め、染付工であった戸崎勘三郎は京都で修業し、大変秀れた腕を持っていました。

製品は、中国や日本の古典ものの写しを得意とし、祥瑞、交趾、仁清写、乾山写などの茶陶が多く、本歌を凌ぐものもあり、近代的な意匠を加えた独自の工芸品もありました。

初代 矢口永寿 明治3年(1870)生、昭和27年(1952)歿

初代 矢口永寿は山中で代々湯宿を営む家に生まれ、本名を岩吉といい、「永寿」と号しました。

永寿は、生来の器用人で書画骨董に通じ、料理も巧みでしたが、青年時代に湯宿をやめ、関西へ出ました。帰郷後、黒谷焼という楽焼を始め、明治37年(1904)、初代 滝口加全を迎え、京風の陶磁器を作る窯を築きました。永寿自身は陶土に触れず、筆をとらなかったといわれ、自らの好みを示して作品の質を向上させ、ついに九谷焼の名工と称せられるに至りました。

菁華窯 

明治39年(1906)~現在

菁華窯は、明治39年(1906)、初代 須田菁華によって山代温泉後に開かれました。初代 菁華は、明治16年(1883)から明治24年(1891)まで九谷陶器会社の画工部長を務めましたが、解散した後、独立して、自宅に錦窯を築き陶画業を始めました。明治39年になって、自家専用の登り窯を築きました。この時点をもって、菁華窯の開窯時期とされています。

製品は、独立してから当初の間、主として茶陶の懐石食器が中心で、水指、茶碗、鉢、向付などがありました。自家専用の磁器窯を築いてからは、染付、祥瑞、安南、伊賀、古赤絵、萬暦、古九谷、古伊万里、鍋島等の倣古品を制作しました。

初代 菁華の工房で働いていた人は、素地工として松島宏明、薮下庄太郎、山本仙太郎などがいて、染付工もいたといわれます。

秋塘窯 

大正6年(1917)~現在

秋塘窯は、大正6年(1917)、初代 中村秋塘によって自宅に開かれ、素地と完成品を制作し始めました。赤絵金彩に卓越した作品、開窯の前年(秋塘48才の時)に開発した砡質手による作品などはいずれも優品として好評でした。製品の販売先は主として大聖寺の井上商店でした。