石田聚精/小酒磯右衝門/沢田南久/川尻七兵衛/八木甚作/石田一郷/福山虎松/笠間竹雪/畑谷関山/越田雪山/高田嶺山/森久松/島崎玉香/小田清山/米田五三郎 |
能美地方には、独自の画風を築き、陶画業を営んだ者が、早くも、文久2年(1862)ころに開業した沢田南久門弟の陶画工も入れると、10数人いたといわれます。主な陶画工は次のとおりです。
石田 聚精
弘化元年(1844)生、明治25年(1892)歿
石田聚精は、北市屋平吉の養嗣子となりました。北市屋は天保4年(1833)に小松で窯を開き、町人からの需要に応じて陶磁器を制作しました。
聚精は北市屋で働くうち、上絵彩色に非凡の才を発揮し、青九谷の磁彩を得意とするようになりました。作品には吉田屋窯に似て濃密な青九谷系の着画に特色があり、裏銘を附したものはないものの、北玉堂聚精の号を箱書きしたものがあります。九谷焼の貿易が盛んなとき、平蔵の力作も海を渡ったと考えられます。
小酒 磯右衝門
天保4年(1833)生、明治33年(1900)歿
小酒磯右衝門は、幼少のときより技芸に優れ、村内の寺の住職に習字を教わり、斎田伊三郎の佐野窯で3年修業して、さらに九谷庄三の門も叩きました。そして、安政5年(1858)、郷里の高堂村で陶画を業として独立し、翌年、工房を開きました。
磯右衛門の画風は、伊三郎と庄三の両巨匠と交流してそれぞれの特徴をよく取り入れた独自の画風と色調を編み出しました。これが明治・大正期の「高堂絵付」とよばれるものでした。「高堂絵付」の特色は、写生風に文様を配し、構図においては雄大で山水図を取り入れ、気品を感ずるものが多くあります。緑を基調とした画風は重厚で、耕作の図や老松に鶴の巣ごもりの図などの名作が伝えられています。これらの絵付は細密な手描きに本金をつけたもので、特に金ふりに独特の巧みさがあり、「高堂絵付」は好評を博しました。
磯右衛門には、門弟の第一号である石浦伊三郎、彼に師事した田中英亮をはじめ、中村伊三松、高伊之吾、大坂由松、吉田庄作、住田栄作、住田伊三松、橋爪豊作、荒木長爾、北島文作、上田孫作、住田甚作、本田儀作、北村外書、住田与三松など多くの者がいました。
沢田 南久
弘化2年(1845)出、大正11年(1922)歿
沢田南久は、安政3年(1856)、12才のとき、陶画業をしていた叔父の久四郎に入門しました。懸命に修業している最中、叔父が亡くなったので、諸大家の画図、絵本を収集して独学し、3年の後に陶画業として独立しました。「南久」と号しました。文久元年(1861)、自宅を絵付工場にし、また生徒の養成に当りました。
慶応2年(1866)、当時盛んに制作されていた「庄三風」だけでなく、金沢の林所平、高岡の蓮花寺利三郎を招くなどして画風の改良に腐心し、実力を身につけました。
その後も師を求めて修業を続け、明治13年(1880)に岸光景に、明治15年(1882)年に納富介次郎に陶画を学び、明治17(1884)年にドクトル・ワグネルに築窯法の指導を受けました。特に和絵具の改良についてドクトル・ワグネルの指導も受けて、新しい顔料を開発し、それは現在も使われている顔料の基礎となりました。画風は、和絵の具と洋絵の具を使い、緑、紫、黄を好んで用いて、綿密に描かれた花鳥は寺井九谷の基礎となった色調を帯びていました。この南久の画風は笠間竹雪、末川泉山と受け継がれて、沢田南久独自の流れを作ったといわれます。
三代 川尻 七兵衛
天保14年(1843)生、明治37年(1904)歿
三代 川尻家は代々、七兵衛を名乗ってきました。初代 七兵衛は、文政元(1818)年に金沢から若杉に移ってきた士族でした。同家の文書に、初代 七兵衛は、加賀の陶祖といわれた本多貞吉が歿した後、文化年間の末期か文政年間の初めに、時の藩公が陶窯の廃棄をいたく惜しまれ、若杉窯の再起のために金沢より招かれ、若杉窯では出納役を担当したと書かれています。
二代 七兵衛は、蓮代寺窯にて松屋菊三郎、粟生屋源右衛門らとともに絵付に励み、その後小松に出て陶画業を始めました。三代 七兵衛(喜平)は、幼少のころに北市屋兵吉から陶画を習い、そして慶応2年~明治元年(1866~68)、弟の嘉平と共に山代の永楽和全から陶画を修業しました。川尻家の文書によれば、明治4年(1871)に若杉村の職場に陶器窯を設け、職人を雇って陶画業をしたと記述されています。明治6年(1873)、弟 嘉平と力を合わせて神戸に支店を設け、九谷焼の貿易を始め、さらに小松にも上絵窯を築いて陶画業に専念しました。
八木 甚作
嘉永2年(1849)生、明治39年(1906)歿
八木甚作は、文久3年(1863)、15才のとき、市川嘉右衛門に陶画を学び、後に金沢に出て内海吉造の下で画風の改良を研究し、ほかにも書、日本画を学びました。
明治6年(1873)、粟生村に帰り、錦窯を据えて、開匠軒と称しました。それは自分の技術(匠)を惜しげもなく教えたいと願って、近隣の子弟に陶画を教えるために錦窯を開いたかったからといわれます。このため、明治中期以降、八木の門弟らによって佐野赤絵と金沢九谷の画風がその村で盛んになったといわれます。
≪作品解説≫
石田 一郷
慶応3年(1867)生、昭和12年(1937)歿
石田一郷は、京都で田中一華に日本画を学び、荒屋に戻ってから日本画を業としていましたが、九谷焼の絵付業を始めました。
作品は、日本画家らしく、染付のものが多いのが特色です。「だるま」を得意としました。昭和3年に善光寺の智栄上人との合作の花生には染付で「だるま」が描いたものがあります。門人には本田儀作、上田孫作、住田甚作、野村仁太郎などがいました。
≪作品解説≫
福山 虎松
明治元年(1868)生、昭和22年(1947)歿
福山虎松は、名画工といわれた石田平蔵に師事し、古九谷と吉田屋窯の真髄を極め、中でも古九谷写しにおいては本歌と見間違えるばかりの作品を作りました。
笠間 竹雪
明治4年(1871)生、昭和9年(1934)歿
笠間竹雪は、明治18年(1885)、15才のとき、幼い時から絵画を好んでいたことから、陶工になるため沢田南久の門下に入りました。入門の時から、聡明で進歩的な気性を持っていて先人の九谷庄三を崇敬し、南久の好きな日本画についても深く傾倒しました。そして県立工業学校教授 鈴木華邸の画風を慕い、さらに上京して高島北海に学びました。こうしたことから勇健な筆致と華麗な画風で日本画に多くの作品も残しました。
明治36年(1903)、寺井村に工房を開いて陶画に専念し、余技として日本画も描き作品を残しました。「竹雪」と号しました。
井出善太郎の経営する絵付工場の顧問であったときに、善太郎の勧めで「緋色釉龍文花瓶」を農商務省主催美術工芸展(農展)に出品し入賞し、石川県の買上げるところとなり、世人を驚かしたことがありました。
門弟に、北村与三吉、平田平松、石田常次郎、吉田才幸、高田伝一郎、梅田梅光、倉田彩幽、末川炭山、松本佐吉、中島寿山、中島珠光ら、後に名匠となったものが多くいました。
畑谷 関山
明治3年(1870)生、昭和13年(1938)歿
初代 畑谷関山は、若年期に大聖寺で絵付業を営み、「関山」と号しました。のちに名古屋へ移って輸出物の着画をしましたが、帰郷して小松で九谷焼の絵付業を始めました。
能美九谷の陶画工たちとは多少異なり、作品には、柿右衛門や古伊万里の写し、赤絵細描、金襴手、巨匠名匠の写しがありました。これは若年期に大聖寺で修業したことが影響したからといわれます。
越田 雪山
明治5年(1872)生、昭和5年(1930)歿
越田雪山は、松浦四郎右衛門に絵付を学び、雪山と号して陶画業を小松で始めました。特色は柿右衛門写し、青九谷の絵付でした。
高田嶺山
明治6年(1873)生、昭和9年(1934)歿
高田嶺山は、父 伝右衛門が文久3年(1863)に焼物窯を寺井大長野村で初めて試みたので、10才のころから父の作業を見て作陶を始めたといわれます。後に、金嶋岩嶺に師事して、「嶺山」と号するようになりました。
このころ、和絵の具のほかに洋絵の具が盛んに使われるようになっていたので、嶺山も研讃を積んで、和洋両絵の具を使いこなすことができたといわれます。また基本になる骨描きに卓抜した巧さがありました。
画材に絵画風の趣向が用いられ、物語もの、田作り作業図など生活に定着したものが多く、また笠間竹雪、石田一郷、安達陶仙らと交流したことから、個性豊かな作品を残しました。九谷庄三から薫陶を受け、山水の自然の美しさを表現し、精緻を極めた中川二作に師事したこともあります。
≪作品解説≫
四代 川尻 七兵衛
明治14年(1881)生、昭和24年(1949)歿
四代 川尻七兵衛は、父に陶画を学びましたが、展覧会などへの出展を好まず、おだやかで丸味のある線の陶画を描きました。赤絵や古九谷風を丹念に絵付し、まろやかな人間味あふれる作品を残しました。
晩年の作品に「七兵衛」と記銘したものがあります。
森 久松
明治18年(1885)生、昭和18年(1943)歿
森久松は、九谷焼の絵付業をしていた森作平の次男として生まれ、小学校入学の前から父の仕事場で絵付を手伝い、長じて中川二作の門弟だった秋山忠義から陶画を修業し、のちに県立工業学校の安達陶仙に学びました。その後、独立して陶画業を始め、織田甚三商店の輸出九谷を作りました。
図柄は現代風にアレンジした花鳥図が多くありました。和絵の具を好み、古九谷写しや「庄三風」の作品を作ることが好きだったといわれます。常時5~6人の門弟があり、野村石之助、森一正らもそのうちの一人でした。
島崎 玉香
明治元年(1868)生、大正11年(1922)歿
島崎玉香は、横浜に出て、山本祥雲に師事して陶画を学び、明治36年(1903)年、寺井で陶画業を営み、さらに九谷焼の販売業も行いました。
作品には日本画にみられるような優雅で流暢さがあり、深みもあって、花鳥、山水、人物などを巧みに描きました。ただ、青九谷の絵の具は使わなかったといわれます。作品に「朝日製」と裏銘をつけ、四国方面に多く販売されたといわれます。
小田 清山
明治7年(1874)生、昭和35年(1960)歿
小田清山は、能美郡佐野村に生まれ、初め、「道開風」の赤絵を得意とした西本源平の門人 樋口弥三松に陶画を学びました。「清山」と号しました。
清山は、明治27年(1894)から、鐘、洋盃、湯春などの内側に漢詩などを細字で書くことを始めました。明治33年(1900)、金沢の野村善吉のところで九谷細字の研鑽を積み、明治45年(1912)、自ら工夫して、百人一首、謡曲などを草行体で書く込むことを始めました。特に、径八分(2.4cm)の小さな揚子立に字数6011字を書いた作品は、肉眼で毛筆のみを使って書いたものとしてその独特の妙技が有名となりました。門弟に寺井の田村金星がいました。
≪作品解説≫
米田 五三郎
生年歿年不明
米田五三郎は、明治の初めころは、寺井根上村の陶器商人であったといわれます。国内外で工芸品として有名になった八幡の置物を広く販売したことから、八幡の窯元から信頼され、次第に販路を持つようになると、九谷焼の花器、香炉なども扱うようになりました。
明治21年(1888)、米田は、荒木探令(狩野派画家)らが招かれて、九谷焼の画法の改良を促し、技術水準の向上を図るための指導が行われたとき、亀田山月、初代 須田菁華らとともにその講習に参加したといわれます。このことから、米田五三郎が九谷焼に深く係っていたことがうかがわれ、明治40年(1907)に創設された米田陶香堂を通じて、広く九谷焼の製造販売を手がけたと考えられます。
≪作品解説≫
米田陶香堂
この商店は、明治40年(1907年)に九谷焼の製造・販売を目的として開かれました。置物、花器、香炉などを製造し販売した時期もありましたが、現在は置物の専門窯として事業を続けています。