明治九谷の歴史 能美・小松地方の陶工

江戸末期から明治初めにかけて、斉田伊三郎九谷庄三による「素地作り」と「絵付」の分業化が進む中、大量で良質の素地が製作するため、小松市八幡、埴田などを中心に素地土を専門的に精製する工場であった「泥屋」あるいは「水簸(すいひ)屋」に始まり、その素地土を使って素地を成形し釉薬をかけて焼成までする「素地窯」が次々に現れ、その窯元で多くの陶工が活躍しました。

能美の主な窯元

埴田 山元太吉/山元菊松(太吉の後継者)/山元太郎松/東与三松/坂井三太郎/中田藤松/石田権助/中川千松・山根辰松
河田 高盛昌/高太郎右衛門/東木長吉/小坂次郎松/本谷弥平/坂井岩松/西定松/中三太郎/坂井久徳
小野 横山宗次郎
下八里 山下与作/小島文作/山川石松
鍋谷 河原清松
八幡 松原新助/小原外次郎/宮本磯右衛門/宮本久四郎/山崎三郎平/木田作松/勝木太次郎/市村長作/松本菊松
吉竹 九間源助/三田長作/林仁三郎/吉岡与三松/竹内清市/安田政次
湯谷 倉重太助/山本太平

 

山元太吉

生年不明-明治32年(1899)没

山元太吉は、埴田での素地窯の創始者といわれ、“埴田の太吉”といわれた陶工でした。

太吉は、幼いころ、お庭窯のある隣村の十村の家に奉公に出されましたが、焼き物造りを見て強く興味を引かれ、とうとう小野窯へ逃げ込みました。4年間見習いとして働いてから、小松の本江窯(素地窯)に移りました。そこの親方から信頼を得て釉薬の調合まで修業したといわれます。その後、9ヵ年、小松の窯元 松村屋(詳細不明)で修業を重ね、若杉窯でも腕を磨いたといわれます。

安政5年(1858)、30歳のとき、斉田伊三郎が佐野の与四兵衛山に陶石を発見したことから、伊三郎が素地窯を築くにあたり、太吉は築窯から陶土の製法、製陶の技法など一切にわたって陣頭指揮を頼まれ、5ヵ年の歳月を佐野で過ごしました。

文久3年(1863)、太吉は36歳のとき、埴田へ戻って独立しました。その後、斉田伊三郎は太吉の築いた素地窯を自分の門弟や村の絵付業者に開放したことによって、素地作りと絵付とが分業化されることとなり、自らも素地窯を運営し、庄三工房へ素地を供給したといわれます。

松原新助

弘化3年(1846)-明治32年(1899)

松原新助は能美郡八幡村に生まれました。初め、八幡村若杉窯の若杉安右衛門、川尻嘉平に習い、更に、郡内各地の窯元にて修業を重ね、自分の素地窯を築きました。

安政4年(1857) 小野窯で明治元年(1868)ころまで従事した
明治元年(1868) 23歳のとき、素地窯を八幡村清水の地に築いた
明治3年(1871) 25歳で八幡小学校辺りに移しました。このころ、窯元と絵付の分離を主張し始めた。そして、川尻嘉平の協力を得て輸出向けのコーヒー茶碗を作り始めた
明治10年(1878) 阿部碧海が新助窯の素地を使って松本佐平内海吉造ら陶画工に作品を制作させた
明治15年(1883) 綿野吉二、筒井彦次、松本佐平と謀り八幡村金ケ市に有田風の大円窯を築いた。松田与三郎がここに欧州風蹴りロクロを貸し与え、また石膏型による肉皿を試験的に焼いた
明治20年(1888) 納富介次郎松本佐平と協力して九谷焼改良所を設立し、仏国式円形竪窯を築いた。当時これを改良窯といった。合わせて、陶石の統一及び破砕法を改良して素地の改良を行った
明治24年(1892) 新助窯で石膏型原型を制作した原型師 大塚秀之丞が独立した
明治31年(1899) 名工 石野竜山に対して製陶を指導した

(注)能美・小松地方の陶工の詳細に関しては、「明治九谷のための素地窯 能美」を参照してください。