武腰善平/中野忠次/笠間秀石/中川二作/本多源右衛門/二代武腰善平/武腰泰山 |
寺井村の絵付の本流は九谷庄三の開いた工房で生み出されました。天保12年(1841)、庄三が絵付工房を開いたその時に始まり、安政2年(1855)以降に門弟をとるようになりました。明治15~16年頃、庄三の工房に集まった陶画工は300人を超えたといわれますが、最初の門弟は初代 武腰善平でした。善平からその弟子一門に継がれ、その後、「庄三風」を起点にして、時代の要請に応えた独自の作風を生み出しました。特に評判を得たのが、初代 善平の切割の技法、初代 武腰泰山の田舎山水、三代 善平の彩色赤絵でした。
産業九谷が明治20年(1887)を境に横ばい状況に移ると、寺井村の外から来ていた陶画工の中には郷里へ帰る者、神戸・京都・名古屋・横浜に九谷焼陶画工として招かれる者もいて、村から転出した陶画工が多数に上りました。大正時代の終わりには30名に満たない数に減少したといいます。主な陶画工は次のとおりです。
初代 武腰善平
天保14年(1843)生、明治40年(1907)歿
初代 武腰善平は、12才で九谷庄三の門弟となりました。庄三の妻 しづが善平の姉に当たることから、庄三から格別の薫陶を受けたようです。
輸出九谷が盛んになってきたころ、庄三が能美の中心的存在であったので、その高弟であった善平は非常に多忙で、庄三に代わって絵付することもあれば、庄三の仕事も手伝うこともあったといわれます。
庄三の門弟になって12年間、一時は庄三の養子にとまで推されましたが、慶応元年(1865)、独立して寺井村で陶画業を始めました。それからも、朋輩の笠間秀石、中野忠次らとともに庄三を助ける一方で、陶画業に専念し、「庄三風」の充実発展に努めました。庄三工房の陶画工と職人300余の中の第1人者として自他ともに認められるまでになり、号を「廣布洞」といいました。
庄三の亡きあと、「庄三風」を継承する第一人者となり、後継を育成し、また子の二代 善平、泰之(初代 武腰泰山)をはじめとする武腰一門の総師として活躍しました。
中野忠次
生歿年不明 陶歴不詳
中野忠次の陶歴は不明なところがあります。中野忠次が登場するのは、九谷庄三(天保13年(1816)~明治16年 (1883))には多くの門人がいて、工房の中心が初代 武腰善平、中川二作、小坂磯右衛門、中野忠次、笠間弥一郎などの名工であったといわれていることです。かれらは「庄三風」の画風を充実させ、発展させるために、師の九谷庄三を助けたということです。それだけに九谷庄三から薫陶を受けたと感じられる作品が多いといわれます。
≪作品解説≫
笠間秀石
*「金沢の陶画工 ≪明治中期≫」を参照してください
中川二作
嘉永3年(1850)生、明治36年(1903)歿
中川二作は、元治元年(1864)、14才のとき、九谷庄三の門弟となりましたが、昼も夜も仕事があったので寝食を忘れて励みました。窯焚きともなればその準備から火入れ、色見、窯止めまで任されたといわれます。そして、若いころ、金沢に出て狩野派の佐々木泉龍に日本画を学び、またドクトル・ワグネルが来県した際、直接指導も受けるなど陶画の研究に励みました。そして、明治3年(1870)、独立して陶画業を始めました。
作品の特色は、庄三から薫陶を受けただけあり、花鳥、人物、山水に託して自然の美しさを表現し、精緻を極め美しく仕上げたものが多く、その作品は今もなお気品高いと評されています。制作に当たっている時は、1本1本の線引きにも息をこらし全力を傾注し描いたといわれます。そして白磁彩描、泥金描の法、顔料精選法、陶画摩擦にメノウを使うことなど技法の開発改良に尽くしたその功績は大きいといわれます。
明治10年(1877)ころからは徒弟の養成も始め、吉田甚助、秋田永松、吉田升松、吉田伊三郎、中川俊龍、中川義雄、中川作太郎、吉田太一郎、岡田宗一、山田重芳、林契雄、北出治助、高田作太郎(嶺山)、秋山忠義、小西市松、北中乙松、角谷吉松などの大勢を養成しました。
二代 本多源右衛門
弘化2年(1845)生、明治39年(1906)歿
二代 本多源右衛門は、綿野吉二商店から依頼された輸出九谷の大作を作りました。一貫して庄三の彩色金欄を描き独自の画風を作り上げました。作品の裏銘に「本源堂」の記名を残しました。
二代 武腰善平
明治6年(1873)生、昭和10年(1935)歿
二代 武腰善平は、幼少から、父 初代 武腰善平に陶画を学び、九谷庄三の彩色金襴、赤絵の細書など寺井九谷の技法を維持伝承に努めました。特に繊細な筆致で描かれた花鳥、山水を得意としました。また大正年間(1920年?)から楽焼を始め自作の烙陶を使って楽しんだといわれます。
初代 武腰泰山
明治12年(1879)生、昭和21年(1946)歿
初代 武腰泰山は、初代 武腰善平の三男で、幼少の時から父に陶画を学び、実際に陶磁器に上絵をつけるようになってから、「泰山」と号しました。
作品の特色は花鳥、山水、人物を繊細な運筆で巧みに描き、赤絵、金さしなどの手法を織り込み、また和洋の絵の具を使いわけるなど、上絵で描けぬものがないとまでいわれました。その画風には「庄三風」の柔らかさと深みがあり、その落ち着いた感じは誰をも引き込むような魅力があったといわれます。特に、割取で描かれた通称「田舎山水」という田園風景は彼の作品の右に出るものがなかったといわれます。
門弟には小松の二木紫石、三代 川尻善平らがいて、中島珠光も幼少のころ手ほどきを受けたといわれます。