亀多山月/道本七郎右衛門/橋田与三郎/西本源平/富田松鶴/三輪鶴松/東文吉/西野 仁太郎 |
佐野村の陶画業は天保6年(1835)、斎田伊三郎に始まりました。伊三郎が明治元年(1868)に亡くなりましたが、明治初期には、佐野村で専業画工が18人、兼業が7人いたといわれます。伊三郎の開業が早かっただけに伊三郎に育成された陶画工がすでに多くが独立して陶画業を開業していたからと考えられます。明治20年(1887)頃になると、輸出九谷の最盛期を迎えていましたが、佐野村では国内向の仕事が主体であったので、陶画工の数に大きな変化はなかったといわれます。主な陶画工は次のとおりです。
亀多 山月
弘化元年(1844)生、大正5年(1916)歿
亀多山月は、安政元年(1854)、11才のとき、斉田伊三郎の門弟となり、赤絵細書を中心に修業し、文久2年(1862)に独立して陶画業を始め、「山月」と号しました。
独立しても伊三郎門下の陶画工として研鑽を続けたといわれます。明治8年(1875)頃、亡き伊三郎一門の頭取格として、初代 橋田与三郎らと図り「佐野画工十五日会」を発足させ、毎月15日には作品について合評の会を開いて、それぞれの研究を話し合うことで後進の育成にも努めました。中でも赤絵の元になる朱の発色に研鑽を積むなど、顔料の研究に熱を入れました。
自らの制作活動の外に、殖産興業の中心事業であった九谷焼の振興と、陥りがちな粗製の排除にも努めました。また、納富介次郎や荒木探令を招いて図案の改良を図るように郡に働きかけ、自らも含め陶画工に九谷焼の改善を促し、技術水準の向上を図りました。
赤絵細描や金襴手を得意とし、七福神図や百老図に傑作があります。一方で、色絵竹林人物画のように青彩を加えたものもあって、山月独特の作品を残しました。門弟に亀田惣松、玉川清右二門、富田太郎松、亀田権次郎らがいました。
≪作品解説≫
道本 七郎右衛門
天保13年(1842)生、大正9年(1920)歿
道本七郎右衛門は、斉田伊三郎が天保14年(1842)に開いていた陶画塾で陶画を学び、やがて門弟となりました。明治初期の記録ではすでに佐野村の陶画工として挙げられていたと見られ、明治3年(1870)、28才のとき、独立して佐野村で陶画業を始めました。
伊三郎から赤絵網手の難しい絵付技術の指導を受けたところ、これを得意とするところとなり、また飯田屋風の画風で竹林七賢人や金魚の絵をよく描きました。当初の作品はすべて和絵の具を使いましたが、後に洋絵の具も使った作品も制作しました。そして、埴田や八里の素地を広く調達し陶画業を拡大していき、道本商店を開きました。自作のほか朋輩の作品も扱い、また明治18年(1885)に全国共進会に出品して受賞されました。画風はその子 七左衛門などによく伝わったといわれます。
初代 橋田 与三郎
嘉永4年(1851)生、大正15年(1926)歿
初代 橋田与三郎は、斉田伊三郎の門弟となり、8年間修業して、赤絵細書をよくしました。
亀田山月と協力して「佐野画工十五日会」を毎月催し、みずから初代会長となり、絵付を徒弟から始めることを奨励し、試験制度を作るなど後進の育成に当たりました。
群役所の招聘を受けた納富介次郎や荒木探令を講師にして、自らも図案や顔料使用法の研究などを図りました。初代の画風は門弟の二代 橋田与三郎に受け継がれました。門弟に三輪鶴松、北村与三松、古西幸雄、西野仁太郎らがいました。
≪作品解説≫
西本 源平
嘉永2年(1849)生、大正元年(1912)歿
西本源平は、幼くして陶画工の道を志し、慶応元年(1865)、17才で独立し、「道開風」の作品を作りました。64才で歿するまで赤絵の着画一筋に活躍しました。
斉田伊三郎の歿後、伊三郎の多くの門弟たちの面倒を見たといわれ、源平の門人には樋口与三松、吉田八次郎、長田亀松、中村三松、若林市松などがいました。
初代 富田松鶴
弘化4年(1847)生、大正14年(1925)歿
初代 富田松鶴は、慶応3(1867)年、陶画業を始め、松鶴と号しました。
斉田伊三郎の赤絵網の手が特に優れ、赤絵小紋の平鉢、蓋物、湯呑、青粒を取り入れた壺、金襴手などに傑作を残しました。松鶴の画風は二代 松鶴に受け継がれました。
≪作品解説≫
三輪 鶴松
元治元年(1864)生、明治44年(1911)歿
三輪鶴松は、初代 橋田与三郎に師事し、赤絵細描の技法を修めました。
鶴松は、雪輪、バラ絵の画風を生み出し、また輸出用の大物にも取り組み、細字を取り入れた作品も多くあります。盃や湯呑の内側に漢詩を書き、外側に雪輪を描いてあればこの人の作品であるといわれるほど雪輪が得意でした。
≪作品解説≫
東 文吉
安政元年(1854)生、大正2年(1913)歿
東文吉は、「道開風」の赤絵細書の名手といわれ、着画の改善に尽くしました。作品は日用雑器にも優れた絵付をしたので好評を得たといわれます。
≪作品解説≫
西野仁太郎
生歿年不明
西野 仁太郎は、明治元年(1868)に江沼郡栄谷村に北出宇与門によって開かれた北出窯(後に絵付も行う青泉窯と名を改めました)においてロクロ師であったといわれます。この窯はもともと素地窯で、その高い品質の素地で評判となり、県内にその名が広まったほどで、その窯のロクロ師として名を連ねたことから、優れたロクロ師であったと考えられます。
その後、西野は、佐野村で佐野赤絵を踏襲した初代 橋田 与三郎(1851~1926)の門弟の一人となり、その後、独立して陶画業を始め、国内向けの作品を制作しました。記録によれば、西野は大正2年(1913)に能美九谷陶磁器同業組合の内地商部の代議員に選出されました。
≪作品紹介≫