明治九谷の歴史 金沢の陶画工 ≪明治中期≫

明治中期

明治15年(1882)頃~明治30年(1897)頃

竹内安久/笠間秀石/清水美山/松岡初二/八田逸山/野村善吉

明治中期になると、輸出九谷の中心であった美術工芸品に陰りが見え、明治初期に活躍した名工に修業してやがて名工と呼ばれるようになった陶画工もいたが、多くは産業九谷を大量に扱う陶器商人が経営する絵付工場に雇われた陶画工や、多少の絵心のある陶画工が増えました。

竹内 安久

生年没年不明

竹内安久は金沢九谷の名工といわれ、「誠山堂」と号しました。

竹内安久は内海吉造が起業した為絢社に入り、金沢九谷の輸出九谷の絵付に従事しました。その後、独立して陶画業を始め、金襴手の作品を多く作りました。

≪作品解説≫

 

笠間 秀石 

生年不明、明治28年(1895)歿
笠間秀石(弥一郎)は越中屋平吉(民山窯の職長)の孫で、笠間家を継ぎました。「秀石」と号しました。

笠間秀石は、明治10年(1877)頃、九谷庄三の門弟となり、庄三に陶画を学びました。秀石は天分に恵まれ、庄三の高弟の一人と称されるまでになり、名工といわれた初代 武腰善平、中川二作、小酒磯右榮門らと共に晩年の庄三を助けたといわれます。銘が「九谷庄三」の作品でも秀石のものが含まれているといわれます。師の九谷庄三が明治16年(1883)に亡くなってから、秀石は金沢に戻って陶画業を始め、赤絵、金襴手の作品を多く制作しました。門弟に清水美山などがいました。

≪作品解説≫

清水 美山 

文久元年(1861)生、昭和6年(1931)歿
清水美山は本願寺金沢別院の寺侍 清水幸蔵の長男として生まれ、絵画を直江菱舟、岩井孝次に、陶画を笠間秀石に学び、さらに、明治13年(1880)、東京で岡村忠平から薩摩焼の盛金絵付の技法を修得しました。翌年、金沢で陶画業を始め、その後いろいろな技法や画風を考案したことから、金沢九谷の名工と称されました。

明治18年(1885)、松岡初二と協力して、四分一合金(金属工芸で使われてきた日本古来の色金(いろがね)のひとつで、銀と銅の合金)を陶画に着け、象嵌模様のように表現する技法を編み出しました。合金による上絵付をするという、金沢九谷の特色の一つとなるきっかけを創りました。

美山の考案した図柄の中で、牡丹に孔雀の図柄は明治40年(1907)頃から大流行し、また美山が最も得意としたのは、繊細緻密の盛金絵付でした。繊細緻密な盛金絵付の技法は金沢九谷の中でも高度な技巧を要する、かなり難しいものといわれました。素地の上に絵の具を塗っては焼いてそれを繰り返していき、一つ一つの模様を形取り、最後にその上を金で塗り重ねるというものでした。こうした絵付は、明治期に世界的なブームを呼んだジャパンクタニの輸出九谷を代表するものの一つとなりました。

≪作品解説≫

 

清水美山堂

清水美山堂は、明治25年(1892)、初代 清水美山が金沢に開いた九谷焼の店舗で、自作のものと仕入れたものとを扱いました。ただ、昭和11年(1936)に閉店しました。

松岡 初二 

安政3年(1856)生、大正10年(1921)歿

松岡初太郎は、「初二」を号としました。民山窯の主工 山上松次郎(若杉窯で本多貞吉の高弟の一人)に陶画を学びました。

新しい技法をよく生み出し、明治18年(1885)年、清水美山と共に陶画に四分一合金を使って、象嵌模様を表す技法を考え出し、また明治30年(1897)、陶画に写真を焼付ける新法に成功しました。これらの技法は業界の進展に役立つものとなりました。

八田 逸山 

年生没年不明

八田逸山は、陶画を笹田友山に学び、明治初期から中期にかけて活躍した陶画工でした。特技の九谷細字を活かした作品や、金襴手などの作品を製作しました。
門弟に石野竜山がいました。

≪作品解説≫

  

野村 善吉

年生没年不明

野村善吉は号を「芙蓉堂」と称しました。

善吉は、明治15(1882)年頃、宮荘一藤、高橋北山と共に金沢九谷に細字を書き入れることを始めました。九谷細字は、赤壁の賦や干宇文などを器体の内側や外側に書き入れたもので、大いに珍しがられました。その創始者として善吉たちの功績は大きかったといえます。

明治28年(1895)ころ、後に九谷細字の大家となった佐野の小田清山、寺井の大原江山などを指導しました。