明治・大正時代に、九谷焼といえば、赤絵といわれたほど、「赤九谷」は九谷焼の歴史に大きな足跡を残しました。それは江戸末期の再興九谷の諸窯で製作され、赤色の絵の具(主に吹屋弁柄)を使い、当時流行っていた南画の画法に倣って図案や文様を細描し、その上から金で細い線描きしたものでした。
明治になると、伝統的な様式で制作された陶磁器は明治6年(1873年)のウイーン万博に七宝・漆器などと合わせて出品され、諸外国から高い評価を得ましたが、明治政府は、明治9年(1876)のフィラデルフィア(1876年)万博に向け、各地の産地の工芸品に対し日本画のような図案であること、芸術的な美麗さと繊細さがあることを求め、そうした指導を行いました。
その指導の基準のようなものが、明治初期における洋画の対義語として「日本画」の概念でした。「日本画」とは狩野派や琳派など日本の伝統的美意識や技法を引き継いだ「絵画」であると考えられ、工芸品においても“デザインすること”が重要であると唱えられました。こうして、万国博覧会への出品や輸出品の図案に日本画的、芸術的な表現方法を取り入れることが推進されました。
九谷焼でも同様で、日本画的、芸術的な表現方法が取り入れられました。例えば、金沢の阿部碧海窯では、小寺椿山、春名繁春、笹田友山、津田南皐、清水清閑、飯山華亭、柏 華渓など、日本画を学んだことのある優れた陶画工が色絵や赤絵を絵付しました。その後も、佐野赤絵の名工である亀多山月や橋田与三郎は色絵で見込みに狩野派の絵画に倣った図案を描き、裏面にも日本画を思わせる筆遣いで“竹に雀”と“牡丹の花”を描いた作品を制作しました。そして、石田一郷のような名工は、京都で日本画家 田中一華から日本画を学んで帰郷し、日本画を生業とし、九谷焼の絵付も行いました。こうした陶歴をもつ陶画工が他にもいたといわれ、明治九谷の作品には日本画のような絵付が随所に見ることができます。