赤九谷の全盛
江戸末期、再興九谷の宮本屋窯や佐野窯では赤色を多用する九谷焼が盛んに焼かれる中、宮本屋窯の赤絵細描画は高い評価を得た一方で、佐野窯の斉田伊三郎による佐野赤絵も広く人気を呼びました。それに合わせて、能美地方に拡がっていた産業九谷の中で赤色を多用する製品が造られました。こうして、「赤九谷」と称される九谷焼が明治初期から中期にかけ全盛期を迎え、昭和初期まで製作されました。その絵付に従事した陶画工は200人以上いたといわれ、明治九谷の名工も「赤絵」の名品を数多く残しました。
ところが『九谷の磁器に二つの美あり 二つの美とは何ぞや 一つは赤色の美 一つは金色の美なり 然るにこの二つの美はかえって他の二つの醜の為に隠蔽されて常にその実相を表わすことができない二つの醜とは何ぞや 一つは形体の醜 一つは画様の醜なり』といった悪い評判も出て、一部の赤色を多用する九谷焼の中に“素地や陶画が見た目がみっともない”と評価されたようです。
斉田伊三郎によって相次いで築かれた素地窯からは良質な素地が能美や金沢にも供給されましたが、多くの門人たちは佐野窯で造られた素地の上に吹屋弁柄を用いて精緻な赤絵を描き、また二度焼によって金彩の冴えた赤絵金彩の佐野赤絵を世に出したことから、佐野赤絵は独特のより繊細で品格に満ちていたので、その「赤九谷」は能美や金沢の陶画工に影響を与えました。(参照;佐野赤絵と吹屋弁柄)。
青九谷の復活
明治20 年(1887)頃から、能美地方では「赤絵」の生産が最高の域に達する一方で、粗製品がますます横行し「赤絵」自体が国内外から飽きられるという事態に発展しました。これを目の当たりに見た松本佐平は、明治26年(1893)頃に「赤絵」と「青九谷」(表の模様に緑色を多く使った九谷焼)の双方を融合させた「松雲堂風」という画風を創り出し、古九谷や吉田屋窯以来の伝統的な青九谷が再び見直されるようになりました。
松本佐平の「松雲堂風」の特色は図案を素地の全面に描く点にあり、より絵画的な作風であったことです。図案を描くための十分な余白を確保し、白い器面に図案を絵付しました。その図案の多くは独特の色絵(九谷五彩よりも多彩な絵の具を使った)で描かれた花鳥図であり、従来から用いられた和絵の具だけでなく、和絵の具と洋絵の具の両方を用いたので、これまでの「青九谷」に比べ、全体に釉薬が薄くなったものの、色彩豊かとなりました。
次第に、当時の陶画工の中から古九谷や吉田屋窯を思慕し、「青九谷」を追及する陶画工が現れました。その陶画工の中に明治期の青九谷の最初の名工とされた初代 徳田八十吉と初代 松本佐吉がいました。
初代 徳田八十吉は、松本佐平の義弟で、狩野派画家 荒木探令から絵画を、松本佐平から陶画を学び、古九谷と吉田屋窯の作風の再現に取組みました。若い頃から釉薬の改良と創作にも腐心し独自の彩釉を発明しました。それが「深厚釉」でした。
初代 松本佐吉は、明治41年(1908)に佐平の養子になって絵付工場「松雲堂」を引き継ぎましたが、佐吉は、九谷五彩(青,黄,紺青,紫,赤)を駆使して色絵や「青九谷」を制作しました。特に、「青九谷」の美しさに重点を置いて表現し、古九谷、吉田屋窯などの絵柄と色合いの再現に情熱を注ぎこんだことで、後に「青九谷」の名工と呼ばれるようになりました。