明治期に欧米との貿易経験のなかった日本は輸出九谷によって牽引されて大きく発展しました。特に、海外市場における販売情報(嗜好の変化やクレームも含め)が国内に迅速に伝達される仕組みを考えた代表的な陶器商人が円中孫次と綿野吉二でした。
円中孫平(円中組)は、明治初期に海外での磁器の製造技術を九谷焼に応用することに意欲を見せ、磁器の製造技術に精通していた納富介次郎(日本の工芸および工芸教育を切り拓いた元佐賀藩士)から技術指導を受け、品質の高い“ジャパンクタニ”を世界へ広げることに尽力しました。
その後、“円中組製の九谷焼”は、細密で金色を多く用いた豪華なものであるとの定評が広がり、欧米で高い評価を得ました。これを契機に、他の陶器商人らも欧米の嗜好を素早く取り込んだ図案を絵付することとなり、明治九谷の輸出は他の陶磁器産地に比べ飛躍的に拡大しました。
綿野吉二は、明治10 年代後半(1880 年代頃)に入ると“ジャパンクタニ”のブームが下火になり、輸出不振に直面する中、業界の先頭に立ち諸課題に積極的に対応しました。輸出不振の原因が、粗製濫造が起こって不評を買っていたこと、外国の嗜好の変化に対応できていなかったことなどの課題をいち早く捉え、名工松本佐平と共に課題に対応しました。
綿野吉二は国内問題の解決のために陶磁器業界での近代的な産業制度を導入し、松本佐平、藤岡岩花堂らと協力して、品質向上のための教育と絵付の指導を図り、また陶画工の資格試験制度を作りました。一方で、綿野吉二は自ら錦窯をもつ工房「天籟堂」を開き、そこに名工を金沢や能美地方から集めて、高い品質をもった製品を制作し、明治九谷の更なる発展に努力しました。