明治九谷の特色 ⑤陶画工の銘と「大日本九谷」ブランド

江戸初期に誕生した古九谷には一重角または二重角の中に「福」の字を書き込んだ銘が多く見られます。江戸末期になって次々に現れた再興九谷では、素地から絵付までを一貫して製作する窯元が次々に築かれたことから、引き続いて角に「福」の銘もありましたが、窯の所在地を銘にし、わずかに窯元自身の屋号を銘にしました。やがて、幕末から明治初期にかけ、絵付を生業とする陶画工が現れ、窯元から独立しましたので、製品の呼称であった”九谷”と共に陶画工の名前や屋号を併記する銘を書き入れました。

最初に陶画工の銘を書き入れたのが九谷庄三であったといわれますが、関心あることは九谷庄三が陶歴を積んでいくうちに銘も変えました。江戸末期、庄三が最初に使った銘は小野窯の製品に見られるように「庄七」(庄三の幼名)だけを書き入れ、あるいは角「福」と「庄七」との組み合わせでした。名前が”庄七”から”庄三”に変わると、角「福」と「庄三」の組み合わせになり、さらに、”九谷焼”という呼称が普及すると、角に「九谷」と「庄三」(小文字)の組み合わせに変わりました。ここに、窯元に代わって、陶画工が製品の九谷焼を製作したという意味が銘に込められたと考えられます。さらに、庄三の銘は、明治時代に姓名を名乗ることが許されると、銘「九谷 庄三」(一行書き)を一時に使いましたが、製作の主体が庄三工房に移り、自作の製品が減っていくと、自作の製品と工房の製品の銘は共に二行書きで銘「九谷/庄三」に変わりました。

このように、九谷庄三やその工房が書き始めた銘の形式は、明治初期に一気に普及し、他の陶画工や陶器商人も同じように、自身の姓名、屋号などを銘「九谷」と共に製品に書き入れました。同時に、明治九谷が明治9年(1876)のフィラデルフィア万国博覧会に出品された前後から、春名繁春の花瓶には「明治九年費府博覧会大日本九谷春名繁春製」と書き入れたように、国外に輸出された明治九谷には原産地を意味する銘「大日本九谷」のような国名と産地名(”九谷”には製品名と産地名の二つの意味がありました)が製品に書き入れられました。

同時に、銘「大日本九谷」には円中孫平、綿野吉二ら陶器商人によって輸出された“ジャパンクタニ”が連想させるものがあったといわれ、明治政府の輸出拡大策の意図が込められたと考えられます。こうした意図が功を奏して、銘「大日本九谷」は欧米における明治九谷のブランド名になり、明治後半からは国内向け製品にも銘「九谷」が書き入れられ、日本の磁器製品を代表する九谷焼のブランド名として定着しました。

参照;明治九谷の銘

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