鉢の内側に描かれた網の目は縁から見込みにかけ、だんだんと細かくなっていき、グラデーションのように見えます。この技巧は“網の手”と呼ばれ、佐野九谷の祖 斉田伊三郎(道開)によって創められ、明治九谷に見られるいくつかの高度な技巧の一つといわれますが、その後、この技法は斉田伊三郎の門人あるいはその二代目くらいまでは引き継がれましたが、あまりに難しかったので、後継者が途絶えてしまいました。
この作品が収められている箱には「宮本屋窯/網に金魚図」と書かれていますが、宮本屋窯の画風は中国風の高尚な赤絵細描画を小紋などで埋め尽くして描くもので、“八郎手”と呼ばれるもので、この作品が伝世されるうちに、その見事な赤絵細描から「宮本屋窯」の作品と箱書されたと考えられます。
サイズ 径 約18.7cm 高さ 約7.3cm
金魚と網の図案はごく普通に見られるように思われがちですが、細かな網の目を描きながら数匹の金魚が泳いでいるかのように描くのは技巧のいるとされ、それだけに赤い地の上の金魚が金で鱗も尾ひれも細い線で引かれているところは見事です。“網の手”との取り合わせには金魚のほかに、網の中の水面に浮かぶ紅葉を描いたものもあり、また網の外で金魚が泳いでいるかのような図案もあります。
この作品でもう一つ見逃してはならないのが。外側の側面を巡らせている赤玉瓔珞文で、赤玉文と瓔珞文とが組まれて描かれていることです。古くからいずれの文様も吉祥文として使われてきましたが、瓔珞文が焼き物の文様に使われるようになったのは江戸時代からとされ、明治になって佐野赤絵に多く取り入れられました。それは、赤が魔除けの意味があり、赤で瓔珞文を描くことによって当時流行った疫病鎮静の願いを込めたからといわれます。
銘は赤で塗り潰された枠の中に「九谷」の文字が書き入れられています。こうした銘の入れ方は江戸末期から見られ、陶画工が自分の名前を銘にして書き入れるようになったのは九谷庄三からといわれ、同じ時代の斉田伊三郎のような名工であっても自分の銘を入れることがなく、角「福」「九谷」などでした。
*作品の制作者 不祥
この鉢の制作者は定かではないのですが、“網の手”と“赤玉瓔珞文”を描けるだけの技巧を持ち合わせた陶画工(名工)は斉田伊三郎か、その門人でも一部であるといわれます。門人の中でも“網の手”で優れた作品を制作したのは、道本源右衛門か富田松鶴であると考えられます。