この作品には、明治の初めに、欧米に輸出できるだけの技術を確立しようとした成果がでているように見えます。すでに再興九谷で培われていた技術や技法だけでは足らず、新たな技術が必要でした。
先ず必要であったのは、欧米で好まれる九谷焼のための素地造りの技術でした。欧米からは、テーブルウエアなどのように、表面が真っ白で滑らかに仕上げられた素地が求められました。この花瓶の内と外に釉薬を施して本焼した素地の表面がとても綺麗に仕上がり、見た目でも手で触っても滑らかで、明治10年頃から、洋絵の具と相性の良く純白な素地造りの技術が整ったといわれます。
サイズ 口径約10㎝ 胴幅約16.8㎝ 高さ約26.4cm
つぎに、絵付けする絵の具にも新たに改良が加える必要がありました。九谷庄三が洋絵の具を改良して生み出した“彩色金襴手”(濃厚な色合い)の”ジャパンクタニ”に続いて、欧米から求められたのは日本画のような色合いでした。試験場ではこれまでの九谷五彩だけにとらわれずに、洋絵の具で中間色が出せる洋絵の具の実験を行い、また九谷焼の素地との相性を改善する洋絵の具の改良に取り組みました。
その結果、この作品のように、九谷五彩にない淡い色絵(文様)が描かくことができました。この試験場で改良した洋絵の具に加え、名工の改良した絵の具によって多彩な中間色が生み出されたといいます。明治12年(1879)頃からそうした中間色が多く使われた輸出九谷が制作されるようになりました。
明治初期に、双耳(花瓶などの胴の横に耳のように付いた飾りもの)の付いた大型の壺や香炉が装飾品として輸出の花形商品となりました。この作品にも鳳凰の形をした双耳が胴に貼り付けられていて花瓶に造形的な装飾が加わっています。おそらく、この作品では鳳凰を彫刻してから貼り付けたように見えますが、その後、名工らも手の込んだ遊環(リング状の双耳)や獅子型の双耳などを取り込みました。試験場は造形的な装飾においても先駆けて試みたように思われます。
銘は「石川縣勧業場製」と書き入れられています。