明治九谷を支えた陶工と素地窯

明治初めの素地造りの状況

明治時代、九谷焼が重要な輸出製品になったため、その素地へ大量の需要が生じました。それに加え、これまでに製作したことのなかったテーブルウエアや中・大型の製品の素地が直ぐにも必要となりました。それに対応したのが、江戸末期に再興九谷の諸窯で育まれた製陶の技法で、その需要に応えられました。

ただ、当初は大変に困難な素地造りであったことは当然でした。『九谷陶磁史考草』(昭和3年発刊 松本佐太郎著)には、明治初めの輸出向け“珈琲具”について記されています。「明治二年 士族 阿部碧海が自宅に絵付窯を築き 輸出に適した珈琲具・茶器・食器・菓皿・酒錘・喫煙具類を製作し始めたが 元々 製作に不熟練であったので 完全なるものが十に二 三を得るに過ぎなかった」。この記述からは、コーヒーカップの“かたち”が均一でなかったこと、取っ手が曲がってついていたことなどが想像されます。阿部碧海窯でコーヒーカップの完成品ができたのはそれから1年後という状況でした。

そして、左の像の5枚の皿は、「加賀国/綿野製」と銘打った、名工の製品ですが、重ねてみると、歪みがあることがわかり、また5枚それぞれの重さが299g~361gとバラツキがあります。

この皿の高台には“目跡”(めあと)もあります。これは裏側から皿を“支えた”粘土玉が溶着しそれを剥がした跡です。皿の裏側に粘土玉を挟み込んで、焼成中に素地(かなり厚みのある)が溶けその重みで垂れ下がり、あるいは割れ目が入らないように防ぐためでした。明治初期の一時期にこうした製品が輸出されていたことに驚かされます。

また、中・大型品の素地の製作も困難に直面しました。明治初期に欧米や国内で開かれた博覧会に出品された、中・大型の鉢、花瓶、香炉、壺などの素地を製作するのも初めての経験でした。ロクロ成形している最中に素地の重みで下の方から歪みが入り、乾燥や焼成時の温度管理が不十分であったため、裂け目や割れなどが入ってしまうことが度々ありました。

1.テーブルウエアの素地を造った新助窯

明治3年(1871)、金沢の阿部碧海は“珈琲具”の素地を松原新助(弘化3年1846-明治32年1899 素地と絵付の分業を提唱した陶工))の新助窯に依頼しました。八幡の素地窯では従来からいろいろな“かたもの”が成形されていたことからでした。松原新助は腕のいいロクロ師であったうえ、八幡や若杉で盛んであった型押しの手法に精通していました。取っ手のあるカップやポットの素地を製作するにあたり、部分ごとの型に陶土を押し付けて成形した後、取っ手を胴体に接いだといわれます。この型押しの技法が各種のテーブルウエアの素地製作に使われると、歪みが少なく、ほぼ均一な素地が量産できるようになりました。

このとき、陶土と釉薬の改良もありました。八幡の陶土には鉄分がほとんど含まれない花坂陶石が厳選されたので、真っ白な素地ができ、鍋谷石を原料にした釉薬をかけて焼くと、釉薬がガラス質となって表面全体を覆い滑らかになり、合わせて、取っ手をつないだ所にあった凹みや隙間を埋めました。こうした原材料の厳選によって新助窯の素地が阿部碧海窯から高い評価を受けました。

右の画像は阿部碧海窯が製作したソーサーです。真っ白で薄い素地はエッグシェルタイプのようで、ろくろで成形してから、型押しの技法で薄く均整のとれたソーサーに仕上がりました。また、目跡もなく綺麗です。

 

右の画像は「友山」の銘の書かれたデミタスカップです。笹田友山が阿部碧海窯に在籍した時の経験から新助窯の素地を使ったと見られます。均整のとれたカップに取っ手が真っ直ぐについているのがわかります。

 

 

 

こうして、テーブルウエアの多くの素地は新助窯で製作されたと見られ、明治10年(1878)になると、阿部碧海窯ではこの窯の素地を使って名工らが各種の製品を製作するようになりました。明治20年(1888)には、松原新助らが有田風大円窯をフランス式の円型窯に改築した「改良所」を開き、その後、そこを松原新助の所有に移ってからの素地は、上等の素地の代名詞のようにいわれました。陶器商人 綿野吉二、名工 松本佐平らが大いに使用したので、明治九谷への評価も益々高まりました。

ただ、明治15年(1882)、松原新助は、他の産地(瀬戸地方)に比べて普及が遅れていた石膏型鋳込成形法を使って、有田風の大円窯において肉皿を試験的に焼成し、一応の成果を得たといわれます。しかし、この成形法はそれからさらに2年後でした。その理由は、石膏自体がいまだ高価で石川県では入手困難であったこと、従来の素地窯を石膏型鋳型法のために改造する意欲も資金が小松の素地窯になかったことなどが考えられます。

2.各地の陶画工に供給された江沼地方の素地

明治時代になって急がれたのが中・大型の製品の素地であり、それは江沼地方の再興九谷の諸窯で製陶技術を修得した陶工によって製作されたと考えられます。その中心的な陶工が大蔵清七(寿楽)と北出宇与門でした。大倉清七が金沢の阿部碧海窯(明治2年1869-明治13年1880)の外注先にその名を連ねていることから、春名繫春が阿部碧海窯に在籍していたとき、万博出品の大型の花瓶の製作に大倉清七が関わっていたことが考えられます。一方、北出宇与門の素地が井上商店から金沢の赤丸雪山に依頼して制作された中型の製品に使われたことがわかっています。この地方の素地の製法が中・大型の製品の素地に適し、その価格が瀬戸産素地より低廉であったので、金沢の陶画工に魅力的であったと考えられます。

大蔵清七(天保7年1836-大正7年1918)は、九谷本窯(万延元年1860-明治3年1870)の製品改良のために京から招かれた永楽和全がその素地を精良なものに改良しているところを目の当たりにしました。さらに、永楽は荒谷(現在の白山市荒谷)で発見された荒谷陶石から造った、粘りのある陶土を使って素地を造りました。その素地は少し青味を帯びていたものの、硬質で、表面の仕上がりが極めて綺麗でした。

大倉清七は永楽和全から「寿楽」の号を受けたほど、素地造りに秀でていました。永楽が京に戻ったあとの明治4年(1871)、塚谷竹軒と共に、元の九谷本窯を譲り受け、その素地窯を改修して素地を造りました。翌年、その素地を使用した花瓶がアメリカで開催された博覧会に出品され受賞しました。このために、金沢の阿部碧海窯の外注先として大蔵寿楽の名前が挙げられたとおり、彼の素地の評判が金沢の陶画工の間に広がっていき、主に中・大型の製品の素地に使われたと思われます。その後、明治12年(1879)に九谷陶器会社が設立されると、その陶工部長に就き、 翌年、県の命により有田への視察に行き、有田の素地窯に倣って新しい素地窯を築くなど、江沼九谷の発展に尽くしました。その後、大倉は「大蔵窯」を開き、自営による素地造りに専念しました。

北出宇与門(嘉永6年1853-昭和3年1928)は、再興九谷の松山窯で粟生屋源右衛門、松屋菊三郎、山本彦左衛門から製陶技術を学んだ後、明治元年(1868)に「北出窯」を開きました。ロクロに秀れた技を発揮し、型押し成形の手法でも素地を製作し、合わせて、素地に染付することも得意であったので、この窯の素地は江沼地方の陶画工(竹内吟秋や浅井一毫とその門弟ら)に供給され、大聖寺の陶器商人 井上商店、小松の宮本商店(詳細不明)などに卸し販売されました。時には、陶画工の依頼を受けて展覧会用あるいは美術工芸品となるような中・大型の製品のために素地を製作しました。井上商店は、金沢から名工を大聖寺に招いてこの窯の低廉な素地に絵付を依頼し、優品を製作し、あるいは大聖寺伊万里の素地にも使いました。こうして、この窯の素地は江沼九谷の名声を大いに高めることに貢献しました。三代 北出塔次郎のとき、素地・絵付の一貫作業を行う窯元として歩み始め、その後、「青泉窯」と名を改め、現在に至っています。

左の画像の高台鉢(幅23.6㎝ 別名コンポートあるいは脚付き深皿)は、明治初め、赤丸雪山が井上商店の初代 井上勝作の招きで大聖寺にきて、北出窯の素地に絵付した製品です。まっすぐに伸びた脚、横に拡がった鉢状の皿の成形が優れていると評されています。

 

 

3.産業九谷を支えた佐野・小松の素地窯

江戸末期、能美地方の佐野村(現、能美市佐野町)では斉田伊三郎が、同じく寺井村(現、能美市寺井町)では九谷庄三が、それぞれ絵付窯(工房)を開きました。こうして、素地作りと分業する磁器生産が定着していくと、大勢の陶画工らが使う、低廉で大量の素地が求められました。次々に素地窯が自然発生的に築かれ、既存の若杉窯や小野窯も加わって、この地方は明治以降の産業九谷を支える素地窯の集まる地域となり、その中心の素地窯が佐野窯と山元窯でした。こうして、素地作りと絵付とが分業化されていくと、佐野村の素地窯や山元窯の発展に刺激され、この地域にも素地窯が次々に起こり、佐野村の佐野赤絵と九谷庄三工房が先頭になって推し進められた分業体制の下で素地窯が発展しました。

佐野赤絵などを支えた佐野村茶碗山の素地窯群

斎田伊三郎は、若杉窯や小野窯で素地窯の改良に携わりながら、絵付も指導していましたが、文政8年(1825)に佐野村に戻り絵付窯を開きました。金彩の二度焼きの技法を生み出すなど「佐野赤絵」が評判を呼び、合わせて、多くの陶画工を育て、村人たちにも絵付を教えたので、この村では赤絵の絵付が盛んとなり、明治にかけて素地への需要が急激に高まりました。

このため、斉田伊三郎は、佐野村で素地窯を築くことを考え、佐野村の丘陵地で陶石(佐野陶石と呼ばれる)を発見したので、数人の村人に素地窯を築くように勧め、安政5年(1858)から5年の歳月をかけ数基の素地窯を完成させました。その後、明治元年(1867)に斎田伊三郎が没した後も、多くの門弟が佐野赤絵を製作し続け、また農民画工、陶器商人がこの佐野村の素地を使った製品を製作したので、新しい素地窯を増設しながら、40年近くにわたり、7軒の窯元が盛んに素地を製作し、産業九谷の発展に尽くしました。

最初に素地窯を築いたとき、村人を指導したのが小松の埴田出身の陶工 山元太吉で、完成後、彼は埴田に戻って素地窯を築いたので、その周辺地域では素地窯が次々にでき、この地域は産業九谷を支える基盤造りが広がることになりました。

寺井・小松の絵付窯・陶画工に供給された“埴田の太吉”の素地

山元太吉(生年不明-1899年没)は、再興九谷の諸窯で製陶技術を修得していたところ、安政5年(1858)、30歳のとき、斉田伊三郎から佐野村茶碗山での素地窯の建設を依頼されました。文久3年(1863)、36歳のとき、その時の経験を活かして故郷の埴田(現石川県小松市 埴田町)で素地窯を築きました。これがきっかけにこの地域の素地窯群が組成されたことから、彼は“埴田の太吉”と呼ばれ、その地域でパイオニア的な陶工となりました。

この窯の素地がいろいろ使われたことからその素地の評価も高かったとみられます。斉田伊三郎の高弟 道本七郎右衛門が明治3年(1870)に独立した以降、佐野村の素地と合わせて、この窯の素地も使いました。また、明治10年(1877)、九谷庄三の門弟 篠田茂三郎が故郷の越中福岡で独立したとき、山元窯の素地を使用して、庄三風の福岡焼(「景岸園」と呼ばれた)を始めました。それは、篠田茂三郎が九谷庄三工房で修業していたとき、この素地を使ったことがあったといわれ、そのため、独立後もこの素地を選んだと考えられます。このことから、九谷庄三工房でもこの窯の素地が使われていた可能性が考えられます。

4.金沢における素地窯 藤岡岩花堂

当然ながら、近隣に陶土の産出のなかった金沢でも、素地窯が築かれ、金沢九谷の一部を支えたのが窯元 藤岡岩花堂の素地窯でした。その窯の前身は、明治10年(1877)に石川県勧業試験場が設立され、製陶技術の向上を図るために築かれた窯でした。試験場には製陶科が開設され、伝習生を募って教育指導し、教授には京都より円窯築造に詳しい小川文斎と数名の陶工、染付に優れた西村太四郎らが招かれました。また、納富介次郎から石膏型成形を学んだ松田与八郎も製陶の技術を伝習生たちに教えました。

この素地窯は「岩花堂」と呼ばれ、明治九谷の製陶技術の向上に貢献しました。試験場での目的が終わると、素地窯「岩花堂」は、明治15年(1882)、それに関わってた藤岡外次郎によって継承され、窯元「藤岡岩花堂」と改められ再開されました。金沢最初の素地窯となりました。それ以来、明治30年(1897)まで操業が続けられ、その間、小寺椿山、初代 和沢含山などの陶画工が在籍したので、彼らの名品が製作されたこともあり、あるいは金沢の陶画工に白素地や染付を供給したほかに、窯自体で色絵、赤絵なども製作しました。

右の画像は藤岡岩花堂の色絵皿で、真っ白な素地で、歪みがなく均一です。

 

 

 

 

(注記)明治期の素地についてもう少し知りたい場合には、「九谷焼をもっと知る!」の九谷焼の素地(の特色 素地窯と陶工 素地の成形)を参照してください