明治九谷の作品 綿野製 竹内安久 赤絵花鳥図皿五枚組

陶器商人綿野吉二商店が明治初期に陶画工に制作させて輸出した花鳥画の中皿です。こうした洋食器は通常10枚一組で制作されたので、そのうちの5枚とみられます

5枚の皿にはいずれも赤色と黒色を多用して全面に花鳥画が描かれています。転写絵付でなく一枚一枚を手筆でしっかり絵付されているので、同じ陶画工の作品と考えられます。巧みな筆さばきと綿野吉二商店のセンスが感じられる作品です

ほぼ中央に尾の長い鳥が一羽、その周りを花木が取り囲んだ図案です。赤色と黒色を多用した絵付は佐野赤絵で始まり、明治初期の輸出品によく見られました。赤色に濃淡がつけられ「弁柄」の巧みな使い方を感じられます

5枚の裏名には「加賀九谷/綿野製/竹内画」と「加賀九谷/綿野製」の二通りがあります。

5枚とも高台のほぼ中央に釉薬のない”ハリ目”が1個あります。これは、洋皿のように高台径が長いために高台の”ヘタリ”を防ぐために皿のほぼ中央に”ハリ支え”とした小さな土の塊を挟み、焼いた後に取り除いた跡です。高台の広い素地の造り方が未だ完成していなかった明治初期の素地であることを物語るものです

明治九谷の作品紹介 沢田南久 赤絵割取人物図吉祥文手炙り

“おめでたい”を器体に表現した、珍しい小型の手炙りです。江戸末期から流行っていた割取の構図であり、側面に五つの吉祥文から型をとった窓に人物画、牡丹などの花鳥、竹と雀などを赤絵金彩と黒色を中心に彩色し、窓の周りを金襴手の地で埋めています

サイズ;径 約10.4㎝ 高さ 約10.1㎝

他の窓よりも大きな窓には中国風の人物図が描かれています。赤色と黒色を用いた絵付で人物画が描かれ、佐野赤絵の影響も感じられる作品です。明治初期には絵手本などで人物図が能美地方や金沢に拡がっていたとみられ、この人物図もそうした中から参考にしと考えられます

この文様が何であるか不明ですが、赤地金襴手の地に弁柄でなければ描けないほど、植物の茎に見られるうぶ毛のようなものを連想させる線描です

手炙りだけあってずっしりと安定した形で高台なく、素焼きの地肌を見せる底の中央に釉薬を塗った白く丸い素地の部分に「於九谷 南久製」と赤色で書き込まれています。

明治九谷の作品紹介 道本七郎右衛門 赤絵割模様花鳥人物図瓔珞文菓子鉢

道本七郎右衛門の初期の作品と思われ、佐野赤絵の画風が随所に表われています。内側には、伊三郎の晩年にみられた割模様を取り入れ、赤絵金彩だけでなく、黒色も用い、一方で、明治九谷の色調を感じさせます。外側を赤玉瓔珞文で巡らせ、さらに、高台周りを芭蕉葉の細描な文様で一周させています

サイズ;径 約18.4㎝ 高さ 約7.7㎝

道本七郎右衛門;斉田伊三郎から赤絵網手の難しい絵付技術の指導を受けてこれを得意とするなど、特色ある佐野赤絵の画風を踏襲した一人でした。明治3年(1870)、28才のとき、独立して佐野村で陶画業を始めましたが、晩年には販売業も行いました

内側の三つの割文様には、伊三郎の好んだ中国風の人物画、明治初期に流行った花鳥画、花木を通して見える遠景画がそれぞれ赤絵金彩、黒色で彩色していますが、余白も多く置き、赤絵金彩の地を文様のようにして赤色を抑えた色調としています

外側の側面を巡らせている赤玉瓔珞文は赤玉文と瓔珞文から構成され、いずれの文様も古くから吉祥文として使われてきましたが、明治になると、佐野赤絵に多く取り入れられました。それが意味したことは、全体から見ての「紅白」で吉祥を表わすとともに、赤絵によって当時流行った疫病からの快癒を祝した意味もあったと考えられます

高台の内側中央に「九谷道本画」と赤色で書き入れられています

高台の外側には佐野赤絵によく見られる”芭蕉の葉”が細描されています

 

明治九谷の作品解説 橋田与三郎 赤絵金彩富士飛鶴松図蓋付茶碗

この蓋付の茶碗に見られるいくつかの図案の中で、「富士飛鶴松図」が側面や蓋に描かれているのを見ると、この図が主題であろうと思われる。他の図案(蜻蛉と草花、雁の群れ)と考え合わせて、制作者が自分の慶事(長寿)を祝って、晩年に製作したと考えられます。師であり義父である齊田伊三郎(道開)が長寿であったこと、また、大正時代に入り、道開の愛弟子であり同輩であった西本源平、亀田山月、道本七郎右衛門、富田松鶴らが長生きした後に亡くなったこともあり、思いを込めてこの作品を製作したと思われます。

サイズ;口径 約7㎝ 高さ 約8.6㎝(蓋を含む)

この「富士飛鶴松図」は、鶴・松・富士という縁起の良い文様を一組にしたもので、慶事に合わせて誂えられた着物や工芸品の図案に用いられたととおり、この作品でも、自分の長寿を祝ってこの図を選んだと思われます。道開が74歳で、与三郎自身が75才でそれぞれ亡くなりましたが、自分の長寿を誰ともなく感謝して、富士山と羽ばたく二羽の鶴、松の木の美しい風景を道開の創案した赤絵金彩で綿密に描いています。

茶碗の側面には別に二つの図案が描かれています。一つは伸びやかに成長した初秋の草花と羽を広げた蜻蛉(トンボ)です。この図からは、蜻蛉がもつ季節感(初秋)とともに名もない草花が成長している姿を今の自分に重ねていて、制作者の心情が映し出されているようです。

もう一つは、晩秋の情景としてよく用いられた「鴈の群れ図」です。雁は晩秋から初冬にかけ群れを成して飛来し、早春にまた北に帰るといわれ、そのとき鳴き渡る声が哀調を帯びるため、晩年を迎えた者の心情を表わすものとして絵画に描かれたように、この作品でも同じような心情が表わされたように見られます。

裏名は「九谷/与三郎」と書き込まれています。共箱にある箱書きには、蓋の表に作品名を表わす「九谷焼/赤絵/御湯呑」と、制作者を表わす「道開二代/与三郎」とが書き込まれ、さらに、蓋の裏に二代 橋田与三郎の朱印「橋田遊松」によって、“この作品が初代 与三郎の作であること”が確かであると示されています。

なお、ある資料では二代 道開は“二代 斉田伊三郎”であると表示され、また別の資料では初代 橋田与三郎が開いた工房が“道開堂”と呼ばれたこと、与三郎が道開の娘婿であったことに注目して二代目である表記されていますので、いずれが妥当であるかを判断するために更なる調査が必要です。

明治九谷の作品解説 高橋北山 赤絵逆さ獅子に鳳凰桐文皿

明治初期の金沢九谷ではその図案が日本画のような花鳥図で占められた感じでしたが、制作者(高橋北山)の活躍した明治後半になると、独創的な図案や構図が見られます。この作品の見込みには梅の花をつないだ円の中に一風変わった「逆さ獅子」(次項で解説)が、当時でも珍しかった逆立ちした狛犬の石像からヒントを得て図案化したと思われ、その外周に置かれた八つの円の中にも珍しい図案が描かれていて、構図的にも独創的です。

また、赤絵といっても、見込みは朱赤で塗り、縁から見込みにかけては周囲の文様と地の紗綾文全体から赤の濃淡が感じられ、グラデーションがかかっているように見え、赤絵の絵付にも視覚的な工夫が加えられたようです。

見込みに描かれた逆立ちをする狛犬の図案は、名工といわれた福島伊之助が金沢の石浦神社の境内に明治24年に据えられた「逆さ狛犬」から着想したと見られます(この狛犬はその後大正時代にかけ石川県全域の110以上の神社に広がったといわれます)。図案では、いかつい顔付きをし顔中に毛の渦があり、毛並みが一本一本細かに描かれ、後ろ足で雲をけっている狛犬の姿で、鳳凰と桐の実の図案と合わせて吉祥の意匠に仕上げたと考えられます。

外周にある八つの円の中に4種類の図案が二組ずつ対面で描かれています。画像の上二つには鳳と桐の実が描かれ、これは鳳が桐に宿り、その実を食するとの言い伝えから、古くから組み合わせて描かれたようです。見たこともない鳳であり桐の実も高いところにあって、なかなか様子がつかめないため、目に見えない存在への畏敬の念を表わそうとしたと見られます。

下の左の図案は、瑞雲から頭を出した鳳を表わしたとしか言いようのなく、唐時代につくられた三彩鳳首瓶と同じように、これもどこか畏敬の念を表したかったと思われます。右の図案は、実際に「逆さ狛犬」と対をなして据えられた狛犬が座して据えられているといわれますが、制作者は座した狛犬の後姿を描いたところがとてもユニークです。

裏名は二重角に「九谷 北山」と一行で書き込まれています。高台内は比較的広く、その外側には八つに分けられた枠の中に魚子文と波文が交互に綿密に描かれています。全体の半分ほどが擦れて薄くなっていますが、完成時の様相は金沢九谷らしく繊細にて華やかであったと思われます。

 

明治九谷の作品解説 清水清閑 赤絵金彩花鳥図湯呑

制作者(清水清閑)は多くの名工を生んだ阿部碧海窯(内海吉造が工場長、任田徳次、岩波玉山が主工でした)の陶画工となり、後に、明治初期の名工の一人までになりました。日本画のような図案や精緻な文様を巧みに描き、この小ぶりな湯飲み茶碗に華麗な赤絵金彩で絵付しています。金沢九谷が明治九谷の優品の代名詞といわれたことがわかる作品です。

この大輪の牡丹の花の横には金で漢文が書かれていて、その漢文を「□□楊妃につぐ名高き仙子の花」と解釈すれば、制作者は“富貴の花”といわれる牡丹の花がとても美しいと、古代中国の美人とされた楊貴妃を引き合いに出して、賞讃したかったと見られます。仙子が百人の花の精を統括する花神とされるので、牡丹の花を百花の中で最も富貴溢れる花として描いたと思われます。赤の濃淡、金線の細さ、石目打ちの技法による点描など、金沢九谷の繊細な描写が見られます。

江戸末期に赤絵細描で誇った八郎手にすでに見られた“雷文”、明治10年頃まで流行った“石目打ち”の文様、そして赤地に金で点描した文様など、繊細さが随所に出ています。こうした技巧は明治九谷が“ジャパンクタニ”として世界から高い評価を受けたきっかけとなりました。

裏名に「九谷/清閑」と書き込まれています。高台内と茶碗の内側にニュウが見られ、制作者が独立してからしばらくの間、こうした窯キズのある素地でも使わざるを得なかったという明治初期の素地の事情のわかる作品です。

明治九谷を支えた陶工と素地窯

明治当初の素地の品質

明治時代に入って九谷焼が重要な輸出製品になると、素地へ大量の需要が生じました。それに加え、これまでに製作したことのなかったテーブルウエア、中・大型の製品の素地が直ぐに必要となりました。それに対応したのが江戸末期に興った諸窯で育まれた陶工と製陶の技法でした。

ただ、明治初期の素地造りは困難を極めました。『九谷陶磁史考草』(昭和3年発刊 松本佐太郎著)には、明治初めの輸出向け“珈琲具”についてその素地造りが記されています。「明治二年 士族 阿部碧海が自宅に絵付窯を築き 輸出に適した珈琲具・茶器・食器・菓皿・酒錘・喫煙具類を製作し始めたが 元々 製作に不熟練であったので 完全なるものが十に二 三を得るに過ぎなかった」と。この記述からはコーヒーカップの“かたち”が均一でなかったこと、取っ手が曲がってついていたことなどが想像されます。阿部碧海窯でコーヒーカップの完成品ができたのはそれから1年の年月を要しました。

左の像の5枚の皿を見ると、「加賀国/綿野製」と銘のある輸出品でしたが、歪みがあることがわかり、またそれぞれの重さが299g~361gとバラツキがあります。

 

この皿の高台には“ハリ目”があります。これは裏側から皿を支えた粘土玉が溶着し焼成後にそれを剥がした跡です。洋皿は高台の径が広く、焼成中に素地の真ん中に”ヘタリ”が起こるのを防ぐためでした。

 

 

また、中・大型品の素地の製作においても困難に直面しました。明治初期に欧米や国内で開かれた博覧会に出品された、中・大型の鉢、花瓶、香炉、壺などの素地を製作するのも初めての経験でした。ロクロ成形している最中に素地の重みのため下の方から歪みが入り、乾燥や焼成時の温度管理が不十分であったため裂け目や割れなどが入ってしまうことが度々ありました。

このように、明治初期において九谷焼の素地造りには大きな課題がありながら、当時の陶工や素地窯が試行錯誤を繰り返し、あるいは他の産地の製法を学びながら、次に述べるように、良質な素地が創り出されたことがわかります。

1.各地の陶画工に供給された江沼地方の素地

明治時代になって急いで求められた素地は中・大型の作品のためのものでした。それは江沼地方の再興九谷の諸窯で製陶技術を修得した陶工によって製作されました。中心的な陶工は大蔵寿楽(幼名清七)と北出宇与門でした。大倉寿楽が金沢の阿部碧海窯(明治2年1869-明治13年1880)の外注先にその名を連ねていたのも、春名繫春が万博出品の大型の花瓶を制作したとき、寿楽の造った素地が用いられたためと考えられます。また、北出宇与門の造った素地は井上商店から金沢の赤丸雪山に依頼されて制作された中型の製品に用いられたことがわかっています。素地のための陶土や製法が中・大型の製品の素地造りに適し、素地の価格が瀬戸産素地より低廉であったので、金沢の陶画工に選ばれたと考えられます。

大蔵寿楽(天保7年1836-大正7年1918)は九谷本窯(万延元年1860-明治3年1870)の製品改良のために京都から招かれた永楽和全が素地を精良なものに改良しているところを目の当たりにしました。寿楽は和全が荒谷(現在の白山市荒谷)で発見された荒谷陶石から造った、粘りのある陶土を用いて素地を成形したことを学びました。その素地は少し青味を帯びていたものの、硬質で表面の仕上がりが極めて綺麗でしたので、赤絵金彩や金襴手に適したと考えられます。

大倉寿楽は永楽和全から「寿楽」の号を受けたとおり、素地造りに秀でていました。永楽が京都に戻ったあとの明治4年(1871)に、塚谷竹軒と共に九谷本窯を譲り受けたとき、素地窯を改修して良質な素地を造りました。翌年、寿楽の素地を用いた春名繫春(このとき金沢の阿部碧海窯の陶画工でした)制作の花瓶がウイーン博覧会に出品されたことから、金沢の阿部碧海窯の外注先として大蔵寿楽の名前が挙げられました。寿楽の素地は次のフィラデルフィア万博に出品された春名繫春の作品にも用いられ、寿楽の評判は金沢の陶画工の間に広がっていき、主に中・大型の作品のため素地に適していたと思われます。

寿楽は、明治12年(1879)、九谷陶器会社の陶工部長に就き、 翌年、県の命により有田へ視察に行き、有田の素地窯に倣って新しい素地窯を築くなど、江沼九谷の発展に尽くしました。その後、寿楽は「大蔵窯」を開きました。

北出宇与門(嘉永6年1853-昭和3年1928)は、再興九谷の松山窯で粟生屋源右衛門、松屋菊三郎、山本彦左衛門から製陶技術を学んだ後、明治元年(1868)に「北出窯」を開きました。ロクロに秀れた技を発揮した上、型押し成形の手法によって型物の素地も製作しました。合わせて染付も得意であした。

この窯の素地は主に江沼地方の陶画工(竹内吟秋や浅井一毫とその門弟ら)に供給され、大聖寺の陶器商人 井上商店、小松の宮本商店(詳細不明)などに卸し販売されました。時には、陶画工の依頼を受けて、展覧会用あるいは美術工芸品となる、中・大型の作品のために素地を製作しました。また井上商店は金沢九谷の名工にこの窯の良質な素地に絵付を依頼したことがあり、あるいは一世を風靡した大聖寺伊万里に適した素地も造りました。

こうして、この窯が素地の品質向上を先導したことから、江沼九谷そのものの名声を大いに高めることになりました。三代 北出塔次郎のとき、素地・絵付の一貫作業を行う窯元として歩み始め、その後「青泉窯」と名を改めました。

左の画像の高台鉢(幅23.6㎝ 別名コンポートあるいは脚付き深皿)は、明治初め、赤丸雪山が井上商店の初代 井上勝作の招きで大聖寺にやってきて、北出窯の素地に絵付した製品です。まっすぐに伸びた脚、横に拡がった鉢状の皿の成形が優れていると評されています。

 

 

2.産業九谷を支えた佐野窯・小松の素地窯

江戸末期、能美地方の佐野村(現、能美市佐野町)では斉田伊三郎が、同じく寺井村(現、能美市寺井町)では九谷庄三が、それぞれ絵付窯(工房)を開きました。その後、二人は素地造りと絵付とが分業する生産体制がそれぞれの方式でて産業九谷の基盤を築くことに直接間接に努めました。

低廉で大量の素地が求められると、素地窯が自然発生的に次々に築かれていき、既存の若杉窯や小野窯も加わって、この地方は明治以降の産業九谷を支える素地窯の集まる地域となりました。当初、その中心の素地窯となったのが佐野窯と山元窯であり、続いて新助窯でした。

佐野赤絵などを支えた佐野村茶碗山の素地窯群

斎田伊三郎は若杉窯や小野窯で素地窯の改良に携わり、文政8年(1825)に佐野村に戻り絵付窯を開きました。金彩の二度焼きの技法を生み出すなど「佐野赤絵」が評判を呼び、合わせて、多くの陶画工を育て、村人たちにも絵付を教えたので、この村では赤絵の絵付が盛んとなり、明治にかけて素地への需要が急激に高まりました。

斉田伊三郎は素地の需要が高まることを見越して、佐野村で素地窯を築くことを考えました。佐野村の丘陵地で陶石(佐野陶石と呼ばれる)を発見したので、数人の村人に素地窯を築くように勧め、安政5年(1858)から5年の歳月をかけ数基の素地窯を完成させました。明治元年(1867)に斎田伊三郎が没した後も、多くの門弟が独立し佐野赤絵を制作し、農民兼業の絵付職人、陶器商人もこの佐野村で製品を製作したので、新しい素地窯を増設しました。その後40年近くにわたり、7軒の窯元が素地を盛んに製作して産業九谷の発展に尽くしました。

安政5年(1858)から素地窯を築き始めたのが小松埴田出身の陶工 山元太吉で、完成後、彼は埴田に戻って素地窯を築いたので、その周辺地域でも素地窯が次々にでき、埴田地域も産業九谷を支える基盤の一つとなりました。

“埴田の太吉”の素地と新助窯の素地

山元太吉(生年不明-1899年没)は、再興九谷の諸窯で製陶技術を修得していたところ、安政5年(1858)、30歳のとき、斉田伊三郎から佐野村茶碗山での素地窯の建設を依頼されました。文久3年(1863)、36歳のとき、その時の経験を活かして故郷の埴田(現石川県小松市 埴田町)で素地窯を築きました。これがきっかけにこの地域の素地窯群が組成されたことから、彼は“埴田の太吉”と呼ばれ、その地域でパイオニア的な陶工となりました。

この窯の素地がいろいろ使われたことからその素地の評価も高かったとみられます。斉田伊三郎の高弟 道本七郎右衛門が明治3年(1870)に独立した以降、佐野村の素地と合わせてこの窯の素地も使いました。また、明治10年(1877)、九谷庄三の門弟 篠田茂三郎が故郷の越中福岡で独立したとき、山元窯の素地を使用して、庄三風の福岡焼(「景岸園」と呼ばれた)を始めました。それは篠田茂三郎が九谷庄三工房で修業していたとき、この素地を使った経験があったからといわれ、独立後もこの素地を選んだと考えられます。

テーブルウエアの素地を造った新助窯

松原新助(弘化3年 1846-明治32年 1899)は能美郡八幡村に生まれました。初め、若杉窯の若杉安右衛門、川尻嘉平に習い、さらに、郡内各地の窯元にて修業を重ねて独立しました。その矢先の明治3年(1871)に、金沢の阿部碧海から“珈琲具”の素地を依頼されました。八幡の素地窯では従来からいろいろな“かたもの”が成形されていたことからとみられます。松原新助は腕のいいロクロ師であったうえ、八幡や若杉で盛んであった型押しの手法に精通していました。

取っ手のあるカップやポットの素地を製作するにあたり、部分ごとの型に陶土を押し付けて成形した後、取っ手を胴体に接いだといわれます。この型押しの技法が各種のテーブルウエアの素地製作に使われると、歪みが少なく、ほぼ均一な素地が量産できるようになりました。

このとき、陶土と釉薬の改良もありました。八幡の陶土には鉄分がほとんど含まれない花坂陶石が厳選されたので、真っ白な素地ができ、鍋谷石を原料にした釉薬をかけて焼くと、釉薬がガラス質となって表面全体を滑らかになりました。合わせて、取っ手をつないだ所にあった凹みや隙間を埋めました。こうした原材料の厳選によって新助窯の素地が阿部碧海窯から高い評価を受けました。

右の画像は阿部碧海窯が製作したソーサーです。真っ白で薄い素地はエッグシェルタイプのようで、ろくろで成形してから、型押しの技法で薄く均整のとれたソーサーに仕上がりました。

 

 

 

右の画像は「友山」の銘の書かれたデミタスカップです。均整のとれたカップに取っ手が真っ直ぐについているのがわかります。笹田友山が阿部碧海窯に在籍した時の経験から新助窯の素地を用いたと見られます。

 

明治初期のテーブルウエアの素地の多くは新助窯で製作されたと見られ、明治10年(1878)になると、阿部碧海窯ではこの窯の素地を使って名工らが各種の作品を制作するようになりました。明治20年(1888)には松原新助らが有田風大円窯をフランス式の円型窯に改築した「改良所」を開き、その後、そこが松原新助の所有に移ってからの素地は上等の素地の代名詞のようにいわれました。陶器商人 綿野吉二、名工 松本佐平らも大いに使用しました。

松原新助は、明治15年(1882)、他の産地(瀬戸地方)に比べて普及が遅れていた石膏型鋳込成形法をによる、有田風の大円窯での肉皿を試験的に焼成し一応の成果を得たといわれます。しかし、この成形法はそれからさらに2年後になって普及しました。その理由は石膏自体がいまだ高価であること、石川県で入手困難であったこと、小松の素地窯には従来の素地窯を石膏型鋳型法のために改造する意欲も資金がなかったことなどが考えられます。

松原新助の主な陶歴は次のとおりです。

安政4年(1857) 小野窯で明治元年(1868)ころまで従事した
明治元年(1868) 23歳のとき、素地窯を八幡村清水の地に築いた
明治3年(1871) 25歳で八幡小学校辺りに移しました。このころ、窯元と絵付の分離を主張し始めた。そして、川尻嘉平の協力を得て輸出向けのコーヒー茶碗を作り始めた
明治10年(1878) 阿部碧海が新助窯の素地を使って松本佐平、内海吉造ら陶画工に作品を制作させた
明治15年(1883) 綿野吉二、筒井彦次、松本佐平と謀り八幡村金ケ市に有田風の大円窯を築いた。松田与三郎がここに欧州風蹴りロクロを貸し与え、また石膏型による肉皿を試験的に焼いた
明治20年(1888) 納富介次郎、松本佐平と協力して九谷焼改良所を設立し、仏国式円形竪窯を築いた。当時これを改良窯といった。合わせて、陶石の統一及び破砕法を改良して素地の改良を行った
明治24年(1892) 新助窯で石膏型原型を制作していた原型師 大塚秀之丞が独立した
明治31年(1899) 名工 石野竜山に対して製陶を指導した

3.金沢における素地窯 藤岡岩花堂

近隣に陶石の産出のなかった金沢においても、必要に迫られ、小規模な素地窯が築かれて金沢九谷を支えました。それが窯元 藤岡岩花堂の素地窯で、その窯の前身は、明治10年(1877)に石川県勧業試験場が設立され、製陶技術の向上を図るために築かれた窯でした。試験場には製陶科が開設され、伝習生を募って教育指導することとなり、教授には京都より円窯築造に詳しい小川文斎と数名の陶工、染付に優れた西村太四郎らが招かれました。また、納富介次郎から石膏型成形を学んだ松田与八郎も製陶の技術を伝習生たちに教えました。

この素地窯は「岩花堂」と呼ばれ、明治九谷の製陶技術の向上に貢献しました。試験場での目的が終わると、素地窯の「岩花堂」は、明治15年(1882)、それに関わってた藤岡外次郎によって継承され、窯元「藤岡岩花堂」が開業されました。金沢最初の素地窯となり、それ以来、明治30年(1897)まで操業が続き、その間、小寺椿山、初代 和沢含山などの陶画工が在籍したので、彼らの名品がこの窯から制作され、あるいは金沢の陶画工に白素地や染付を供給したほかに、窯自体で色絵、赤絵なども製作しました。

 

右の画像は藤岡岩花堂の色絵皿で、真っ白な素地で、歪みがなく均一形をしています。

 

 

various forms of the back name in Meiji kutani

the origin of the back names in ceramics

It is thought that the back name written on ceramics was born with its advent, and its prototype was born in the Song dynasty or the Yuan dynasty in China, and then  the form of the back name such as “大明万暦Dai Ming Wanli” was completed in the Ming dynasty. Strictly speaking, unlike “inscription” or “signature”, the name written by the creator or some craftsmen inside a foot of porcelain meant such as identification, because the creator himself were not allowed to write the kiln name in China.

In Japan, the back name was first marked on the pottery with the “stamp of Ninsei (仁清)“, while in porcelain, Imari copied the back names on Chinese porcelain from the starting in the early Edo period. These were “大明成化年製made in Dai Min Chenghua” or “福fuku (fortune)”.

 

 

On the other hand, even in ko-kutani in the early Edo period, “福fuku” was often written copying the back name of Ming porcelain. In the late Edo period, the revival kutani adopted the back name from the name of the production kiln, production area, etc. for the first time. Furthermore, in the Meiji period, country name such as “大日本Dainippon” or “加賀Kaga”, and production area name such as “九谷kutani” (it means just kutani ware or Kutani village where kutani were produced at first) were written down on the export kutani, and the name of the creator or store was added.

The beginning of the back names in kutani ware

In this way, the difference between Imari and the revival kutani in the back name was due to the production form. Except for the Kakiemon kiln and Imaemon kiln, Hizen porcelain in the Edo period did not have the back names indicating pottery, painter, kiln, etc. The reason for this is that in Imari, in order to prevent the Nabeshima clan from leaking technology and smuggling products, several body kilns and 16 painting factories were trapped in the protected area of Arita Town and its surroundings. Intentionally the body kilns and the painting factories were divided, so the integrated production of the products under a kiln was not allowed, not to mention, the back name of the kiln or the painting factory were not allowed to write their names. So until the first Meiji period, probably, Imari would raise its rating in porcelain market by copying the back name of Chinese porcelain.

On the other hand, in the various kilns that were established in the Kaga domain and Daishoji domain at the end of the Edo period, products unique to the kiln were made from the purpose and background of each kiln. Therefore, in the kilns aiming at the revival of ko-kutani (ao-kutani), the back name such as “福fuku” were written, and there were various names such as the name of the place where the kiln was built or the name of the kiln owner. Eventually, when a painter like Kutani Shoza (九谷庄三), who had a livelihood in the painting business, appeared, the names of the painter or factory began to be written as a back name to indicate that their work was a brand product or he was a master craftsman. The form of this name was inherited in the Meiji period and developed adding some forms.

back name “kutani” in Meiji Kutani

The name “九谷焼kutani ware” was born in 1818-1830, and “kutani ware” was written on the box containing the products from the Yoshida-ya kiln. The name and the writing spread. After that, a painter who became independent from the kiln wrote his name and his store name on the product.

In the Meiji period, when the number of painters who became independent from the kiln increased, the back name “九谷kutani” was combined with the name of the painter or his store name, and the export kutani was combined with the national name. However, when Meiji kutani was mass-produced and the products with individual back names of painters and pottery merchants decreased, their value became rare, but the crude products with only the back name “kutani” become widespread.

back name incorporating “山”

“山” means mountain. Mountains were special to the Japanese. This is because in Japan, where there are many mountains, people considered mountains to be the world where gods lived, and since ancient times mountains were the object of worship and very important for their lives. Haku-san (白山) was loved by the people of Kaga, and it was a mountain of worship for fishermen and boatmen, and Haku-san was like a sign indicating the destination. It is naturally seen as a sublime mountain, and many painters in the Meiji period adopted “mountain” as their back name.

back name incorporating “堂”

“堂” was usually the house or studio for calligraphers, writers, tea masters, painters, poets, entertainers, etc. The name meant a place where people gathered, and was given to their house and studio, so some painter added “堂do” as his factory name.

 

 

back name incorporating “大日本”

The custom of adding “大large” to “日本Japan” existed since ancient times, and “大日本dai-nippon” was used as one of the “national names” of Japan in diplomatic documents in the late Edo period. In the Meiji period, it was used externally. So kutani attached to works exhibited at the World Expo, and was often seen in export kutani.

 

back name incorporating “加賀”

In the Edo period, the Kaga domain had most of the three countries of Kaga, Noto, and Echu, and in the Meiji period, Ishikawa citizens were proud of the fact that Kaga had the second largest territory after the Tokugawa shogunate. So the old country name “加賀Kaga” was named as the national name.

 

 

back name incorporating “金城

In connection with “加賀Kaga”, the back name “金城Kinjo” was incorporated in Kanazawa kutani, which was the old name of “Kanazawa” in the center of the Kaga domain.

 

 

“signature” in kutani fine print

The calligrapher of kutani fine print wrote his signature as the store name at the end of Chinese poetry. He would not have a painting kiln, and if he wrote his signature with the name of the painting kiln or the painter, it would be confusing who wrote kutani fine print.

 

back name in products by pottery merchant

Watano Kichiji (綿野吉二) was a big pottery merchant of Meiji kutani. His name was also written as “綿埜”. This back name was used for most of the export kutani and was written in abbreviated form such as “九谷utani / 綿埜Watano”. This sample is a rare one because he added “大日本Dai-Nippon” or a famous porcelain painter.

 

 

Unique back name

“相鮮亭” was a back name received to Asai Ichimo (浅井一毫) from his load of Daishoji clan in response to his achievements for the Daishoji clan in the late Edo period and for the development of Enuma kutani.

 

 

 

“彩雲楼saiun-ro” would be the factory name of Toda Tokuji (任田徳次). “彩雲” is a miraculous and beautiful scene of nature, called “iridescent clouds”, in which the clouds are colored red, green, and pink (these colors are colors used by the Minzan kiln that he was engaged in when he was young). It is thought that Toda would wish to represent his own figure he aimed for as a porcelain painter, like a multi-story building (roof) built against such a scene “彩雲”.

「鬼仏」(Kibutsu)  This is another name of the first Tokuda Yajukichi (徳田八十吉). The back name “Yasokichi” was used by the first, the second, and the third at the same time, so the first Yasokichi stamped “鬼仏” in red on the back of the wooden box to distinguish from the second or the third.

 

back name copied from ko-imari

In ko-imari (古伊万里) in the middle of the Edo period, it had a painting style that drew a design in blue and white, arranges red balls and yoraku-mon around the design, and drew arabesque in gold on the outside. In this foot was written in two lines as “奇玉宝鼎之珍”. It is probable that “Daishoji Imari” (大聖寺伊万里) were produced by a pottery merchant of Enuma county, referring to this ko-imari’s painting style, also coping this back name.

Takada Ryozan, colored and gold plate with a bird’s-eye view of Itsukushima Shrine

Itsukushima Shrine in Hiroshima Prefecture is drawn on a large plate using a bird’s-eye view. As for the pictures of Itsukushima Shrine, “Itsukushima Folding Screens” and “Itsukushima Pictures” were drawn since the Edo period, also the tourist information maps by a bird’s-eye view were issued even after the Meiji period. The Itsukushima picture by the creator looks like one of “famous place pictures”, and when looking at both of the front and back of this plate, it seems to be looking at a tourist information map of Itsukushima Shrine. This work is rare in the Meiji kutani.

size ; diameter about 45.5 cm height about 7.7 cm

In the center, famous places and specialties of Itsukushima Shrine are clearly drawn, such as the main shrine, the large torii gate on the sea, the Mikasa Beach, Toyokuni Shrine, the five-storied pagoda, the shrine’s office, Nishi-no-Matsubara (west pine forest), the stone lantern, the flock of deer, etc. It is exactly a tourist information map.

Inspired by Kasama Chikusetsu (笠間竹雪also famous as a painter) and Ishida Ichigo (石田一郷), who had exchanges with Takada, it is probable that Takada realistically expressed the landscape rather than the utopia seen in the Chinese mountain and waters.

From the left side to the upper side of the center, Toyokuni Shrine and the five-storied pagoda are clearly drawn, and “Miyajima in Spring” with cherry blossoms blooming around it is drawn using the technique of fine dots. And on the back, the blooming chrysanthemum flowers and red-dyed maple leaves are drawn, and his painting seems to be also guiding “Itsukushima and Miyajima in Autumn”.

The back name is written as “九谷in kutani / 製by 土井Doi / 画painted by 高田Takada”.

creator of the work

Takada Ryozan  高田嶺山  born in 1873, died in 1934.

Takada Ryozan started porcelain painting while watching his father’s work at the age of 10 because his father run a painting kiln in Terai Village since 1863. After that, he studied under a painter (details unknown), and received a character from his master’ name, so, he was called as “Ryozan”.

It is said that Takada had outstanding skill in drawing contours in ink, which was one of the basic techniques of painting for kutani, and at the same time, he studied the Western paints that were actively used at that time, and then was able to master both Japanese and Western paints. It is said that his porcelain painting was similar to a landscape painting. In addition, some of his works are well based on daily life, such as drawings of stories and rice field work, and some have strongly a painting-taste.

Shimizu Seikan, colored and gold teapot with various auspicious patterns

The surface of this small teapot is gorgeous with colored paintings, gold and brocade, and many designs such as “sho-chiku-bai” (pine, bamboo and plum), “folded paper crane” and “auspicious clouds” are drawn. In particular, since the design of “sho-chiku-bai” is placed in the center, this work seems to be an item to show the prominence.

size: width (longest) about 11.9cm, height about 7cm

The three panels are filled with “sho-chiku-bai” and folded paper cranes and auspicious clouds are drawn around panels. The “sho-chiku-bai” itself is painted in colorful paints and gold, and surrounded by folded paper cranes and auspicious clouds, so the whole is brilliantly expressed.

When holding the teapot, the gorgeousness of the brocade pattern that decorates the lid would be felt, and a character “ju” (寿long life) in gold like a pattern is written on the handle.

小さな蓋の摘みとその周りが金襴手で加飾され、ここにも瑞雲が飛びかい、細かなところまで飾られています。

The back name is written as “九谷kutani 清閑Sheikan” in the back corner of the lid. Because of a teapot, when the lid is removed, the name seems to be written in a way that makes it look casual.

creator of the work

Shimizu Seikan  清水 清閑  born in 1835, died in 1921

Shimizu Seikan was one of the master craftsmen who was active since the early Meiji period. It is said that he was involved in the production of works at Fujioka Iwahana-do kiln (藤岡岩花堂opened in 1880) while he early opened a kutani store in Kanazawa in 1876.

Shimizu Seikan sometimes made vases for export with a height of several tens of centimeters, which drew in detail Chinese-style figures and mountain waters. Also he made small works for the domestic market. All were works with fine pictures.

In his later years, he closed the store and continued to make small works because he had no one to take over the store.